My heart in your hand. | ナノ


▼ 30

今度こそ、その場を離れた。足音を殺すように階段を上がって、遠回りの道で玄関を目指す。
ひどい気分だった。どくどくと耳の下が脈打っていて自分の鼓動が聞き取れそうだ。喉の奥には何かが詰まっているような苦しさがあった。

嫌悪でも不快でもない、けれど、それならばこの気持ち悪さは何なのだ。

ひたすら歩いて、気が付いたら中庭の東屋が目の前にあった。冷たいベンチに腰かけて顔を覆う。心臓が激しく動いている。走ったわけでもないのに息苦しい。
努めてゆっくりと深呼吸をする。感じたことのない感情の乱れをどうにか鎮めたかった。

そうしながら、湧井さんの苦し気な声を思い出す。彼は、キヨ先輩が好きなのだ。あんな声を出すほど。
キヨ先輩を好きな人間は何人もいる。彼だけではない。そんなことは分かり切っていたはずだ。なのに、俺は何に動揺したのだろう。口を両手で覆う。

先輩がどう答えたか。それを考えただけで嫌な感覚が増す。告白を受け入れたわけではないことくらいは理解している。彼は俺を好きだと言ってくれたから、他の誰かに応じたりしないと、そこには疑念の余地はない。ただあの切実な求めにどう反応したかは分からないのだ。
一度だけ抱きしめて、とかキスをして、と言う文言は初めて聞くものではなかった。俺も言われたことがある。

俺は相手のことなど何一つ考えなかったから、それを簡単に拒絶していた。「何で俺がそんなこと」と不快にすら思っていた。
だが、キヨ先輩は俺とは違う。優しい人だ。だから、応じることは有り得ないとは言い切れなくて、つまりそれはキヨ先輩が誰かに―湧井さんに触れるということだ。俺に、触れるみたいに。キスということは、それ以上に親密に。

「―……嫌、だ」
無意識に、掠れた声が零れた。手で口を塞いでいたせいでそれはくぐもっていたけれど、自分の耳にはちゃんと届いて、だから俺は自分が何を言ったか理解した。
嫌? 嫌って、何が。キヨ先輩が湧井さんに触ること。なんで。分からない、頭の中がぐちゃぐちゃする。でも明白なのは、この胸の気持ち悪さは、拒絶感なのだということ。
すごく嫌だ、と思う。なんでとかどうでもいい、とにかく嫌。そういうふうに言いたい気持ちでいる。

なるほど、俺はそれほどキヨ先輩が湧井さんとキスするのが嫌なのだなと冷静を装って言葉にしてみるが、全然、冷静になれなかった。
得体のしれない黒い液体が心臓の脈動に合わせて全身に流れ込んでいくようだ。

誰にもキヨ先輩に触ってほしくない。彼が触れるのは俺だけで、彼に触れることが出来るのも俺だけがいい。先輩がものすごく繊細で大切なものに触れるみたいな、あの触り方をする人間が俺以外にもいるなんて、耐えられない。
口を覆う手に、指が食い込むくらい力が入る。経験したことのない感情でも分かる、これは良いものではない。俺が今考えていることは醜い。とても身勝手だし傲慢だ。
こんなふうに、強烈でどろどろした感情で、彼の行動を制限したがるなんて有り得ない。

けれど、それでも、彼に受け入れてほしい。いいよと言ってほしい。そう思ってしまっていることが最も救いようがない。


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