My heart in your hand. | ナノ


▼ 32

なんとか息を吐いて、ゆっくりと吸う。二呼吸分繰り返したが、上手く酸素を取り込めていないみたいに薄らと息苦しい。
黄色にも茶色にも金にも見えるなかに緑が散った虹彩はいつもと同じように綺麗で、けれどどこかいつもと違っていた。

耳のすぐ下で脈動の音が鳴っている。言葉は出てこず、彼も同じく何も言わない。
雰囲気が動揺を誘って、思考が停滞する。

何か、言わなければと口を開きかけたとき、遮るように電子音が響いた。

虚を衝かれた体が震えた瞬間、逸らせずにいた視線は簡単にキヨ先輩から離れた。音の発信源を見る。彼のスラックスのポケットだ。着信らしかった。
先輩はスマホを取り出しはしたがすぐには応答せず、秀麗な顔をわずかに不機嫌そうに歪めた。あまり見ない表情だった。
その間も音は鳴り止まない。これだけ鳴り続けるのは大切な用件ということだろうと思う。

「―先輩。電話出て」
「……うん」
ちらっとこっちを見て渋々といった様子で頷いた先輩は、「ごめん」と一言断ってからやっとスマホを耳に当てた。
会話が始まったから、彼に少し背中を向けるようにして座り直す。両手で顔を覆い、長くゆっくりと息を吐いた。苦しさは消えていた。

さっきの空気は、何だったのだろう。キヨ先輩は特別おかしなことを言ったわけではない、と思う。なのに訳がわからないくらい動揺してしまって、結局返事もできなかった。
――それに、もっと近くってどういうことだ。すでにぶつかるくらい近かった。それならば、比喩としてだろうか。心の距離とか、そういう。


電話の向こうでは、なにかトラブルでも起きているようだった。来てください、という言葉が漏れ聞こえた。この時間は、もう終わりのようだ。
壁に凭れて考えていたら、通話を終えた彼がこちらを向いて萎れた表情をした。

「大丈夫ですか」
「ステージの順番のことでトラブルがあったらしい」
「行かなくちゃいけない?」
「、……行きたくないな」
確認のための問いに彼がそう答えたのが意外だった。キヨ先輩がそんなふうに言うのを今まで聞いたことがなかったのだ。
もしかして俺といたのに呼ばれたから、だろうか。浮かんだ考えに最近ちょっと自意識過剰だなと苦笑しかけたが「せっかくハルといられたのに」とため息混じりに付け加えられる。

驚いた。本当に俺と居るから行きたくないのか。
そう思ったとき、自分がどんな表情をしたか分からなかったから咄嗟に下を向いた。ないと思うが、もし一瞬でもにやけていたりしたら気持ち悪いし。俯いて、考える。
俺も残念だ。最後なのに、とも思う。けれど、それでも彼は風紀委員長なのだ。
「―キヨ先輩が居ないと、どうにもならなそうなんでしょ?」
だから自由時間のはずの今、わざわざ呼び出されたのだろう。

「……多分」
「じゃあ、行かないと」
柔らかい口調を心掛けたしそれは多分ちゃんと出来たと思う。それでもキヨ先輩は少し悲しそうだったから、俺はそっと手を持ち上げた。

「体育館まで送りますから。ね?」
額に落ちた薄茶色の髪をサイドに流して、ついでみたいに頭を撫でる。
俺も一緒に居たいですと口に出すのはこの場合は正しくないように思った。だから代わりに出来るだけ優しく触れる。慣れない行為で、手付きは我ながらどこかぎこちなかったけれど。

キヨ先輩は目を丸くして静止してから、なんとなくギシギシした動作で頷いた。
良かった、と笑いかけるとその油を差してないロボットみたいな動きのまま目元を隠してしまう。

「待、って―今、何が起こってる……?」
「年下に撫でられるのは嫌でした?」
「嫌じゃな―」
手を引っ込めると、焦ったふうに勢いよく顔が上がる。そこで俺が笑っていることに気が付いて、否定の言葉が中途半端に途切れる。へにゃりと少し情けない表情になって肩を落とした。

「……なんで笑うんだよ―」
意地悪だ、とでも続きそうな口振りだ。
俺は柔らかい髪の感触が残る指先を握り込んだ。もう一方の手で空になったパックや紙コップなどを纏め始めると、横から先輩もそれに倣った。

「年下とか年上とか気にしてるのは俺だけって分かってるので」
先輩は、最初から学年の差に言及なんてしなかった。俺が年上として尊重したいだけだ。許されるからとそれに甘えるのは、彼を軽んじるみたいで、それが嫌だった。誰もそう思わなくても、俺はそう感じるから。
先輩が撫でられるのを嫌がったとしてもそれは年齢が理由ではないし、そも彼は嫌がったりしないという確信もあった。

キヨ先輩は俺の言葉の真意を捉えかねているみたいに沈黙するが、別に深い意味はない。慌てて否定するだろうなという言葉を選んだだけ。それから、落ち込んだ表情でない顔にさせられればそれで良かった。

「行きましょう、キヨ先輩」
先に立ちあがり、教壇に腰掛ける先輩に手を差し出す。取って付けたように「仕方ないな」と呟いてから、その手を躊躇いなく掴まれる。
並んで立った彼が笑ってくれて、それだけで俺は嬉しかった。


prev / next
しおりを挟む [ page top ]

155/210