My heart in your hand. | ナノ


▼ 25

「晴貴くん」
優しげな女性の声が背中に掛けられた。振り向くと、にこにこと笑む若い女の人が立っている。キヨ先輩のお姉さんだ。

「ゆかりさん。今日は、着物じゃないんですね」
白いサマーニットにスキニーという出で立ちが見慣れなくて、知らない人のように見える。仕事着でもある着物姿しか見たことがなかったからだろう。
会釈をして、そう言葉を投げる。ゆかりさんと名前で呼んでくれた方がいいと言われてからその通りにしているが、どうにも慣れない感じがする。あやめちゃんの方は、もう名前を呼ぶのも自然になったけれど。

「今日はお休みなの。といっても、旦那は仕事だから一緒に出掛けたりはできないんだけどね」
ゆかりさんの旦那さんは、キヨ先輩のお父さんと同じく厨房の方で働いている。とても気さくな人だ。顔を合わせると必ず話しかけてきてくれるので、ゆかりさんよりも話をする機会は多い。
二人が一緒にいる様子を見たのは数える程度だが、仲はとてもよさそうだと思う。

なるほどと頷いた俺の隣に彼女は綺麗な所作で腰かけた。縁側にはしとしとと降る雨の匂いが漂っている。今日は朝からずっと雨降りだ。借りている部屋からも少し遠いここにわざわざいるのは、水琴窟の音が届く場所だからだ。教えてくれたのは先輩だけれど。


「清仁はいないの?」
「お母さんに頼まれて、買い物に」
「ああ、そうなの。晴貴くんは、雨だから待ってろって言われた?」
驚いて隣を見る。お姉さんは楽しげな表情をしていた。
なぜ分かったのだろう。その通りだった。荷物を持つのを手伝うと言ったらそう返された。だから俺は大人しくここで待っているのだ。

「なんで分かったんですか?」
「晴貴くんは手伝うって言いそうだし、あの子の方は、晴貴くんのこと大事にしてるから。そういうやり取りになるだろうなぁって思った」
「―大事に」
「そうそう。もしかしてあんまり伝わってない?」
思わず言葉を繰り返してしまった。ゆかりさんは笑いながら問うて、俺の顔を覗き込む。顔立ち自体はキヨ先輩とは似ていない。けれど笑うとそっくりになるし、普通にしていてもどことなく似ているように感じるのは、やはり姉弟だからだろうか。
俺と陽慈の雰囲気が似ているというのも同じようなことなのかもしれない、と隅っこの方で考える。

「いえ。……、なんというか、うぬぼれじゃないかなとも、思ってたりするんですけど、可愛がってもらっているのは、分かってるつもりです。一応」
答えながらなんとなく恥ずかしくて、妙にとぎれとぎれの言葉になった。

風紀委員で彼と関わりのある後輩たちよりも更に、自分はキヨ先輩にとって近くて、親しみを感じてもらえていると思う。多分。あくまで、うぬぼれではなければ、だけど。

「なんだ、一応伝わってるならよかった。清仁はねぇ、優しい子なんだけどあの顔だから―あ、これは身内贔屓かもしれないけど、あいつ、結構綺麗な顔してるでしょ? まあそれでちょっと近寄りがたいイメージ持たれてるらしくって、年下の子と仲良くしてるところなんて見たことなかったから。晴貴くんが清仁と仲良くしてくれて嬉しいな、姉としては」
「キヨ先輩は、見た目だけじゃなくて中身も格好いいですから。近寄りがたいなんて思ってるのは、もったいないですよね」
弟を想っていることが伝わる声音にそう返して笑ってみせる。もったいないなんて、自分から彼に歩み寄ったわけでもない俺が言えたことではないかもしれないけれど。
あの時、中庭で先輩から話しかけられなかったら、俺は多分彼とはただの顔見知りのままだった。
整った外見で、少し丁寧な感じの忙しそうな風紀委員長。その程度の認識で終わっていた。それをもったいないなんて考えるはずもなかった。
だから、先輩が俺に話しかけてくれてよかったと今は思うし、読書が好きだという趣味が共通していたことも嬉しいと思う。

なんと表現すればいいのか分からないが、とにかく彼と仲良くなれてよかった。彼の内側を知ることができて、もったいないと思えるようになってよかった。

「晴貴くんって直球。私が照れちゃうわ」
彼女はそう言って笑ったが、俺は照れるようなことを言ったつもりはなかったのであまりピンとこなかった。


prev / next
しおりを挟む [ page top ]

117/210