My heart in your hand. | ナノ


▼ 26

ぱしゃん、と湯の跳ねる音が微かに響いた。頬に水滴を零す髪をかきあげて、空を見上げる。

明日にはここを出て寮へ戻る予定になっていた。幾度か入らせてもらった露天風呂にも、もう入れなくなるのだと思うと残念だ。
湯気の向こうに星が瞬いている。見える数が多い。星座を探せそうだ、と思って目を凝らしてみる。

小学校のとき、夏休みに自由研究かなにかで陽慈と夏の星座を調べたことがあった。夏の大三角、はくちょう座、わし座。
もうあまり覚えていなくて、三角形のどれがどの星だったか分からないし、どの星までがはくちょう座になるかも分からなかった。
北斗七星かなと思った星があったが多分位置が違う。

星々をなぞって形を見つけようとするのをやめて一度目を閉じる。光の名残が瞼の裏で明滅した。
長く息を吐き出して肩まで温かな湯の中に沈んだとき、内外を隔てるすりガラスの戸がからからと音を立てて開いた。
目を向ければ、思ったとおりキヨ先輩が外に出てきたところだった。茶色い髪が濡れて少し色濃くなって見える。

先輩が俺と一緒に入ったのは、最初の時と今回だけだ。俺は結構何度も入らせてもらっていたけれど、先輩は温泉より居住スペースにある普通の風呂にばかり入る。自分の家だとそういうものなのかもしれない。せっかく温泉がすぐそばにあるのに、と身近ではない俺は勿体無く思う。

「星、よく見えるか?」
湯の中を歩いて俺の隣まで来た先輩は、傍らに座ると問いかけながら頭上を仰ぎ見た。俺が直前まで空を眺めていたのが見えていたらしい。
頷いて「星座分かるかなと思ったけど全然でした」と答える。

「ははっ。俺も有名所しか分かんないな」
キヨ先輩の腕が伸びて空を指す。水滴がぱたぱたと湯の表面を叩いた。
「あれが彦星で、あっちが織姫だろ」
「ああ、そっか。夏の大三角ってそういうのありましたね。じゃあ、あれは?」
「こぐま座、かな? あれが北極星」
言われて初めて、数ある星のうちの一つだったものが意味を持ち直した。常に北にある星。名前が分かると途端に他より特別に見える。

「なら北斗七星は……あ、あれですか?」
俺も空を指さした。そうそう、と軽い相槌。
見つければとても分かりやすくそこにあるのに、さっきはそちらの方を見なかったのもあって、全然分からなかった。
「学校も山の中なのに、ここよりは見えないですよね」
もちろん街中よりは随分沢山見えているはずだけれど。
「こっちのが田舎だからかな」
そうなのかもしれない。学園の敷地がある山はそれほど大きなものではないし、下ればそれなりに発展した街があるが、こちらは麓の町も農業が主流といった雰囲気ののどかさだ。
違いは空気の綺麗さと夜間の照明の少なさだろうか。
出していた腕を湯の中に潜らせる。

「もう、夏休みも終わりだなぁ」
しばらく二人並んでぼんやりとしていた、その静けさのなかで先輩のしみじみとした声が出した。沈黙が破られたように感じないのは、声質によるものかそれとも単に俺がこの声を好ましく思っているからか。いや、多分両方だ。

「そうですね」と応じて、そのまま言葉を繋げる。
「自分の家にいても、何も予定なくてだらだら過ごすだけだったと思うし、先輩に誘ってもらえて良かったです」
「ほんと? ちょっとは楽しかったか?」
「すごく。いつも先輩と話せるし」
「それ、前も言ってくれたな。俺も同じ。それに、前より仲良くなれたよな?」
「仲良くなりましたね」

キヨ先輩は少し冗談めかしたような言い方をしたけれど、より親しくなったのは事実だから、はっきり肯定した。そして目が合うと、とても嬉しそうに笑ってくれる。その表情に俺も胸のあたりから喜びが滲んでくるような感覚を抱いた。

俺は決して話上手にはなれないし、面白いことも言えない。それでも俺といて先輩が笑ってくれるのが嬉しい。
キヨ先輩と居ると楽しい。力が抜けて楽だし安心する。俺がいつもの俺らしい振る舞いをしなくたって、先輩は「らしくない」なんて言わずに、ただそのときの俺を受け入れてくれるだろうと思う。

俺も彼にとって同じように在りたかった。

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