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「すいって、呼んでみてー?」 抱っこしたカイくんの前足をゆらゆら揺らしながらねだる。優世くんはおれの瞳の奥底を覗き込むみたいにまっすぐこっちを見た。
「翠」 くっきりした発音で聞くそれは、香くんたちが口にするものと同じには思えなかった。おれの名前ってほんとうはあんがい硬い響きなんだな、と15年ほども付き合ってきたじぶんの名前にはじめて抱く感想が浮かぶ。 聞き慣れない感じがして、恥ずかしくなったからこっちを見ている優世くんからカイくんのふわふわな体で顔を隠させてもらおうとしたけれど、カイくんはもうお前に構うのはおしまいだとばかりにさっそうとおれのそばから離れていって、最初のように階段でお座りをした。仕方がないので、両手で顔をおおう。
「何してる」 「照れてる」 「なんで。みんな呼ぶって言ったのは、お前だろ」 「なんか、ちゃんと呼ばれると照れるんだってー。みんなもっとゆるゆるだよ。ひらがな発音だよ」 優世くんは完全に漢字で呼んでたじゃん。てのひらで顔をかくしたまま訴えると、優世くんは「なんだそれ」と言った。また鼻で笑うみたいな表情かな、とそっと指のあいだからうかがったら、なんと、優世くんは口角をあげて綺麗な並びの白い歯を控えめに覗かせていた。 ――笑っている!
「笑った!!」 とつぜんの大声に、優世くんは肩を跳ねさせた。お構いなしに顔を覆っていた手を地面について、優世くんの方に身を乗り出す。 「笑ってるところ、初めてちゃんと見た!」 「……そうか?」 おれは大きく頷いた。 「そうだよ、ねえ、もう一回笑って」 「――お前、あんな力入った声も出るんだな。いつもふやけた顔と声だと思ってた」 「そんな失礼なこと思ってたの? まあ、大きな声出したり表情筋使うと疲れるからね」 常に省エネモードなのに、今日はカイくんが可愛かったり優世くんが面白かったりでいつもよりにこにこしすぎているし大きな声も出したから、いつもよりはやく眠くなりそうだ。
「ああ。体力なさそうだもんな」 言いながら立ち上がる優世くん。 「うん、それは認めざるを得ないね。もう帰っちゃうの?」 残念、という感情が最後の言葉に素直に乗った。いつの間にか、辺りはなかなかの薄暗さになっていて、見上げた先の優世くんの顔はよく見えない。
「翠も帰るんだよ。もう遅いだろ」 あ、一緒に帰ってくれるのか。それは嬉しい。あと、呼ばれた名前にやっぱり照れた。カイくんは、と階段を振り返ったら「もうなかに入ったぞ」と優世くんが言う。そうなのか、気付かなかった。そういえば寮監室のガラス戸は細く開けられたままだった。 そっか、じゃあおれも帰ろうかな。
「はい」 「なんだその手は」 「引っ張ってー」 片手をあげて要求するおれに優世くんはしかめ面で「甘ったれてんじゃねえぞ」とヤンキーみたいな口振りで言ったけれど、言いながら手を掴んで引き起こしてくれているんだからまったくツンデレにも程があるなと思った。
それから、初めて会った日みたいに一緒に寮まで帰って、優世くんと別れてからおれはようやく「もう一回笑って」というお願いを完璧になかったものとされていたことに気が付いた。 なんてことだ。一つも気が付かずに誤魔化されてしまった。つぎは絶対笑ってもらおう。ガン見してやる。
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