十六

待ちに待った非番の日、山崎は皆が起床するより早く目を覚まし、朝餉も摂らずに屯所を発った。
彼が本日非番である旨は周知の事なので、黙って朝からいなくなっていても誰も心配しないだろう。

『…』

静かな道の上に山崎の足音だけが響く。

心が急いて仕方ない。
歩調が次第に早くなる。

朝が早いため、町はまだ眠りの中にいる。
大路を行っても人と擦れ違う事はなかった。

やがて、夢の中でナマエと待ち合わせた茶店が見えて来た。
山崎は視界の中にそれを映しながらも歩幅を狭める事なく、その場所を通り過ぎた。

“あの時”より桜が勢いを失している。
夢の時より時間が進んでいるのだと何となく思った。

街道ではなく、ナマエと手を繋いで歩んだ裏道を行く。
辺りの景色は山崎が記憶しているあの時のものと寸分の違いも無いように思える。

雉の番がいたという話をした草むらも確かにあった。
今日は姿は見えなかったが、けーん、という鳴き声はあった。
ナマエと共に見た雉だろうかと思うと、その時の事が思い出されて胸に温かなものが広がった。

瞬間姿を探そうかと歩調が緩んだが、すぐに思い直して目的地への道に戻った。
急ぎの用ではないのだが、どうにも気持ちが落ち着かないのだ。

農道はやがて竹林へと移行した。
これも夢で歩いた場所に違いない。
鬱蒼と茂る竹藪を見回しながら、山崎の中で疑念は確信へと変わっていった。

ナマエは確かに自分と共にいた。

何者かの幻術にかかったか、魂だけが飛んだのか、幾ら考えてもあまりに非現実的な理由しか思い浮かばないが、段々とその様な事がどうでもよく思えて来た。

時間帯のせいか、あれは夢の出来事だったせいか解らないが、今日は蜜事に興じる男女の気配は無かった。

長い竹林を一心不乱に歩き続ける。
時間の感覚も忘れる程、半ば向きになって歩いている内、遥か先が明るくなっている事に気がついた。

竹林の終わりだ。
山崎は、す、と肌が粟立つのを感じた。

あの先には小さな丘があり、それを登り切るとナマエが気に入っている菜の花畑があるはずだ。
目指している場所は、もうすぐそこだ。

堪らず山崎は駆け出した。
早くこの目で確かめたかった。

忍び走りも忘れ、ナマエが見たなら叱責されそうな程、荒い勢いで山崎は駆けた。
息が上がる。
背に回した荷が身体を揺らして走る度に強く背を打ったが、山崎はそれを無視した。

早く、早く。
ただそれだけを頭に浮かべてひた走った。

薄暗い竹林を抜け、急に光を浴びたせいで軽く目が眩んだ。
目を細めながら細かく瞬きをし、やはりそこにあった小さな丘を駆け上がった。

陽が完全に地平線から姿を見せたのか、登り切った天辺はとても明るかった。

『…っ、』

肩で息をしながら、山崎は一面黄色の風景を目にして固まっていた。
まるで海の様に辺りに広がる菜の花畑が存在していた。

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