十五
影の仕事が多く、物静かで凛々しい印象が強い山崎が突然激しく表情を崩したので、千鶴は酷く驚いた。
同時に心配になる。
一体どうしたのだろうかと。
不安げにこちらを見ながらまごつく千鶴を何とか元の仕事に送り返し、山崎は監察方の部屋に戻った。
自分以外は皆外での仕事に出払っている事が今は何より有難かった。
『…』
長く重い溜め息を吐き、紙の山が聳(そび)える文机の前に力なく腰を下ろす。
山崎は替えの結紐で髪を括り、そっと目を閉じてみた。
瞼の裏に浮かぶのは、ナマエの顔。
それもこちらを見てはにかんで笑む、笑顔ばかりだ。
閉じた両目の端から一筋の雫が伝う。
山崎は手の甲で乱暴にそれを拭った。
ナマエへの恋慕の情は、彼女を失ったあの日に封じたはずだった。
愛しく想う気持ちを消す事など出来ない、ならば蓋をして沈めておこうと思っていた。
頭では納得していた。
しかし、心が従っていなかった。
心の深層では今に至るまでずっと、彼女が慕わしいと叫んでいた。
その強過ぎる気持ちがこの様な夢を見せたのだろうと、山崎は考えた。
でも、そうではない、と訴える別の自分の声が聞こえた気がした。
あれは、夢であって夢ではない、ナマエは確かに共にいたのだ。
眉間に皺を寄せ、山崎は目を開いた。
物思いに耽っているせいか、周りの音が遠い。
指先を後頭部へとやり、結紐を弄る。
…ただの夢だと言い切るのなら、目が覚めた時に消えていたこれはどう説明を付けるのだ。
頭を振って顔を上げる。
非現実的な現象に対し、理性的な考えで片付けようとする自分と、感情の向くまま、本心から出た言葉を信じたい自分が鬩(せめ)ぎ合っていた。
その時。
誰かの足音…音から察するに土方がこちらに向かって来る様子があった。
山崎はこの事について考えるのを止め、頭を先程まで従事していた任務へと切り替えた。
それから幾日か、山崎は常に何処かでナマエの夢の事を思っていた。
頭から追い出そうとすればする程、反って焦げ付いて剥がれない。
あの時風に乗って舞い上がった彼女の結紐は、まだあの木に引っ掛かっているのだろうか。
それがどうしても気になって仕方がない。
山崎は次の非番を待ち、夢で訪れた場所へ行く事にした。
辿った道が現実にも存在するものであれば、可能なはずだ。
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