十四
『…!…さん……山崎さん!』
誰かに強く揺すられながら大声で名を呼ばれ、山崎はびくりとして目を見開いた。
『山崎さん!…よかった、大丈夫ですか?』
自分を揺すっていたのは千鶴であった。
目の前の酷く心配そうな顔を呆然と見ながら、山崎は瞬間何が起こっているのか全く理解出来なかった。
今の今まで自分はナマエと共にいたはず。
そして奈落の底へ突き落とされたのではなかったか。
必死に現状を把握しようとするあまり、薄く口を開いたまま微動だにしなくなった山崎を見て、千鶴は益々不安になった。
『どうかしましたか?
酷く魘(うな)されてらっしゃいましたが、夢見が悪かったんですか?』
『夢……?』
夢、という単語を耳にして、漸く山崎の頭が回転し始めた。
同時に周りの風景や匂い、喧騒や気温などの感覚が急激に戻って来る。
自分は今屯所の縁側にいて、気付かぬうちにうたた寝をしてしまったのだと解った。
あれは全て夢だったのだ。
春の陽気が見せた、束の間の幻。
ナマエは既に鬼籍に入っているのである。
何処か空ろな山崎の目にいつもの強い意志を感じさせる色が宿るのが見て取れ、千鶴は下げていた眉を少し元に戻した。
ほ、と息を吐き、両肩を掴んでいた手をそっと離した。
『やっぱりお疲れだったのではありませんか?
ちゃんと横になって休んだ方がいいです』
ちょこんと正座をして手を膝の上に乗せ、やや口を尖らせながら千鶴が言う。
自分を案じるが故の言葉に、胸に温かな物がじんわりと広がるのを感じながら、山崎は目元を柔らかく細めた。
『すまない、雪村君に心配を掛けてしまったな』
居住いを正しながら、すっかり固まってしまった首筋を擦る。
その手の動きを何となく目で追っていた千鶴が不意に、あれ、という声を上げた。
『山崎さん、寝ている間に髪が解けてしまったみたいですよ?』
千鶴が高く結い上げた自分の黒髪を指差して言う。
それを見た山崎は己の結紐があるであろう場所に手をやった。
『…!』
無い。
有る筈のそれが無い。
それに気付いた時、山崎は指先が震える程驚愕した。
…ナマエが、持って行ったからだ。
夢の中での出来事は、人に語って聞かせられる程鮮明に記憶している。
ふざけてこちらの結紐を奪った時のナマエのあどけない笑みがふと頭を過ぎる。
眉根を寄せ、奥歯を噛み、山崎は堪らず顔を歪めた。
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