十三
嫌な予感が汗となって背にひやりとしたものを伝える。
刹那、まるで手妻のようにするりとナマエが山崎の腕の中から離れた。
『!?』
山崎は我が目を疑った。
ナマエの姿は確かにそこにあるのに、手には空を切る感覚しかない。
彼女に触れられないのだ。
身を乗り出そうとしてはっとする。
背面に鳥黐(とりもち)でもつけられたかの様に身体が動かないのだ。
これは一体どういう事か。
目を開けたまま夢でも見ているのだろうか。
それとも、彼女が何らかの秘伝の術でも使っているのだろうか。
一瞬の間に山崎の頭の中には様々な考えが走っていった。
『ナマエ…?』
言うべき言葉が見つからず、思わず口をついて名前が出る。
ナマエは寂しそうに笑うだけであった。
空は薄墨を流したかの様な色に変わっていた。
日は陰り、あれほど彩り豊かで鮮やかだった辺りの景色ですら薄ぼんやりしている。
風は勢いを増し、花を散らし、枝をしならせていた。
『…烝さん、』
す、と音も無く立ち上がりながらナマエが口を開いた。
何処か遠くから響いてくる、不思議な聞こえ方だった。
山崎は食い入る様に彼女の目を見つめた。
『今日は有難うございました。
共にこの景色を観られました事、本当に嬉しく思います』
不思議な響きを持つナマエの声を聞くと、まるで夢幻の中にいる様な感覚を受けた。
気を緩めれば全てが霧散してしまいそうな危うい感覚。
山崎は乱れる心を必死に静めて集中した。
『どうかお忘れなく。
私はいつも、貴方の心の中に居ります』
『何を言って…』
言っている意味が分からない。
今生の別れの句を口にしている様な話し方に何かが引っ掛かる。
彼女を見る目付きを鋭くさせると、ナマエは何かを言いかけた。
『…っ』
何かを感じたのか、ナマエは表情を消して辺りを窺う素振りを見せた。
そしてやや俯き、目を固く閉じて表情を歪ませた。
泣いている、と山崎は思った。
息を震わせながら吐き、ナマエは真っ直ぐこちらを見た。
その目に涙は浮かんでいなかった。
『長居をすると囚われて戻れなくなります。
もう…お戻り下さい』
『待て!さっきから君は一体何の話を、』
声を上げる山崎の額にナマエが唇を寄せた。
唇が触れた感覚はなかった。
『…ずっと、お慕いしております』
瞠目して何も言えなくなった山崎の耳元でナマエが言う。
その瞬間何とも形容し難い思いが急激に胸に押し寄せ、鼻の奥がつんと痛んだ。
薄く透けているナマエの両手が山崎の肩を押す。
背にしていた幹に洞(うろ)が出来ており、背中から落ちる形で暗闇に呑まれた。
『ナマエーーー!!』
名を叫びながら何処までも落ちていく。
落とされた入口が光の点になって見えなくなると、山崎の意識も暗闇の中に融けてしまった。
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