十二
身綺麗にしてからすぐに発つつもりではあったが、時間は今日半日与えられているという気持ちから、何となく腰を上げられずにいた。
胡座を掻いた間にナマエを座らせ、自分の腕の中に確かに閉じ込めているというのに、何故だか言い知れぬざわつきが心の隅から這い寄ってくる感じがする。
自然と眉間に皺が寄り、彼女を抱く手に力が籠る。
『如何なさいましたか』
小さく笑いながらナマエが穏やかな声色で問い掛けてくる。
山崎は彼女から顔を背ける形でその肩口に頬を押し当てた。
表情は見えなくなったが、ナマエが少しこちらを振り返り、優しい眼差しをくれている気配を感じていた。
陽が中天を過ぎた頃から心なしか速く傾いていく。
薄く変わり始めた空色と、吹く風に混じり始めた冷たさが漠然とした不安感を煽る。
『…何でもない』
それらの全てを拒むかのように山崎は強く瞼を閉じた。
頬から伝わるナマエの着物越しの熱、耳に響く鼓動。
感じたざわつきを追い払いたくて、山崎はその感触に集中しようとした。
『何時までも、こうしていられたらどんなに良い事でしょう』
筋肉が動いて、ナマエが空を見上げたのだと解る。
彼女の背から伝わってこちらの体内に直接聞こえた言葉の意味を、山崎は目を閉じたまま思った。
『そうだな』
酷く淡泊な返事だが、その一言に万感の思いが込められていた。
ずっとこのままでいる事が叶わない事など互いに痛い程理解している。
しかし叶わないからこそ、強く思ってしまう。
その心の機微もよく理解していた。
元々そういう性分である事もあるが、二人とも職業柄物分かりがよく出来ている。
通常であれば“仕方の無い事”など意味が無いので決して口にしない。
山崎は、それが敢えて口に出て来てしまった意味を、奥歯を噛んで心に浮かべた。
ナマエに何かを言おうとして口を開きかけた時、急に暴風とも言える激しい風が吹いてきた。
『…!』
はっとして頭を上げて風が吹いてきた方を見る。
少し目を閉じていた間に空は薄雲で覆われ、物凄い速さで流れていた。
『…ああ、もう刻限になってしまった』
風の音が強く、ナマエの口からぽつりと零れたその言葉が山崎の耳には届かなかった。
え、と聞き返すと、彼女は山崎を振り返りながら笑顔を作った。
その笑顔に山崎の額に嫌な汗が滲み、心の臓が早鐘を打ち出した。
嫌な予感がする。
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