二
夜になり、寒さが更に増して肌を刺す様な感覚がしていた。
或る宿の二階、この寒さの中、奥座敷で窓を開け放して朱塗りの杯を傾けている男がいた。
今宵の空は厚い雲に覆われ、決して月や星の類いは見る事が出来ない。
それでも男は物憂い紅の眼を空に向けて、唯唯遠くを見つめていた。
『…火鉢の熱が無駄になりますよ、風間』
己を諌める低い声が聞こえて、風間と呼ばれた男は面倒そうに顔をそちらへ向けた。
『…天霧か』
表向きは従者として、しかし本当は目付役として共にこの京へやってきた男の姿を目にし、風間はやるせない溜め息をついた。
彼の纏う衣から外気と同じ匂いがした。
今日の分の務めは終いかと、風間は内心で呟いた。
先祖が結んだかつての盟約に従い、薩摩への報恩のために京入りして暫くが経つが、人間達が風間達に要請するのは今のところ暗殺ばかりであった。
(下らなさ過ぎて反吐が出るわ)
風間は空になった杯に酒を足しながらそう思った。
約束という鎖に縛られ、従いたくも無い命を、苦い汁を飲む思いで受け入れる。
毎日の様にそう過ごしている内に段々と風間の心は苛立ちで荒み、それが過ぎるとどうでもよいと思い始め、次第に冷たく冷えた。
主の難儀な性格にやや手を焼いている天霧は、火鉢の前に正座して、彼に気付かれない様に鼻から溜め息を吐いた。
『今夜は、雪になりそうですね』
ぽつりと零す様に天霧が呟いた。
風間はそれを聞いてはいたが、声を返しはしなかった。
『京の外れで雪に関する興味深い話を耳にしました。
何でも、この辺りの山の何処かに、雪鬼姫と呼ばれる雪を操る鬼女(おにおんな)がいる、と』
『…』
それまでつまらなさそうにしていた風間の目に微かに光が宿った。
天霧の言葉に明らかな興味を示した証だ。
風間は顔を真っ直ぐ天霧へ向け、無言で続きを促した。
『確証はありませんが、人間達の間ではまことしやかに語られている話です。
…何でも、この世の者とは思えない程美しい容姿を持ち、間違えて山奥に足を踏み入れた男の心の臓を凍らせて、その身を食らうのだと』
『ふん、下らんな』
作り話に過ぎぬ、と言って風間は杯を一気に干した。
彼等鬼もまた、一部の目立ったはぐれ鬼のせいで人間達のおとぎ話の中で散々悪者に仕立て上げられてきた。
それに通ずるものを感じて、風間は鼻で笑ったのだ。
『雪を操る女の鬼か。
もし本当に存在するのであれば、一度顔を見てみたいものだな』
火の無い所に煙は立たぬ。
だいぶ尾ひれがついた話になってはいるが、恐らく何か特別な能力を持つ鬼の様な女がいるのだろう。
(同胞であれば、己の里にて保護をする)
風間はゆったりした動作でもう一度曇天を見上げた。
すると、
『ああ、やはり降りましたか』
空に雪がちらつき始めた。
最初のひとひらが舞い降りて来るのを見て、風間は杯を持った手を空に掲げた。
綿雪は音も無く杯へと落ちると、一瞬にして溶けた。
雪の解けた酒を呷ると、風間は先程とは全く違う、生気に満ちた笑みを浮かべた。
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