八
コンパクトを閉じると、パチン、という音が静かな化粧室に反響した。
この時間では流石に誰もいない。
少し崩れた化粧を直し、髪型もガラッと変えてみた。
完璧にアフターファイブ仕様になった私は、最後に鏡に向かってにこっと笑って化粧室を後にした。
誰かがこの階に来たのだろうか、丁度この階でエレベーターが止まっていてくれた。
ラッキーだな、と思いながらいそいそと乗り込んで、1のボタンを押す。
途中で二人程を拾って、エレベーターは一階に到着した。
開くのボタンを押して先にその二人を降ろし、最後に私が出る。
エントランスホールは早々と電気が消されて薄暗く、業務時間外のため受付の女性もいなくなっていた。
天井が高く広い空間に、出口へ向かう私のヒールの音がよく響いた。
その時、柱の影から突然男の人が現れた。
驚いた私が思わず短く悲鳴をあげると、その人物が困ったように笑った。
『悪いな、驚かせちまったか』
『あ、……原田さん?』
声の感じと、近付いてみた時の姿で漸く人物を特定出来た。
私の目の前に現れたのは原田さんだ。
でも、どうしてこんな所に。
『随分早えけど…もう帰んのか?』
『はい、今日は仕事が早く終わりましたので』
柔らかな表情で話し掛ける原田さんに釣られて、私も何となく微笑んで応える。
前の合コンで原田さんに礼を欠いた言動をしてしまった関係で、彼に対しては少し気まずさを覚えていた。
しかし原田さんは気にするなと言ってくれて、且つ、こうして気安く声を掛けてくれる。
その気遣いが嬉しかった。
気まずく思ったのは、その、斎藤君一筋だというのに一瞬でも原田さんを異性として良いなと思ってしまったからというのも、無きにしも非ず。
これは絶対誰にも内緒なんだけど。
心の裏側でそんな思考を巡らせていると、
『そりゃ奇遇だな、俺も今日はたまたま早く仕事が終わってよ』
と原田さんが言った。
へえ!と返して、そうなんですか、という言葉を続けようとした時、彼が一歩を踏み出して来た。
不意に近付いた距離に、無意識に心臓が跳ねた。
『ん?…なんだ、昼間と髪型違わねえか?』
乙女の変化に真っ先に気付く辺りは流石原田さんだ。
彼は女子が喜ぶありとあらゆるワードを知っている…と私は思っている。
『あ、ええ、そうなんです。
これからちょっと、出掛ける都合があるものですから』
斎藤君と会うから、というのは言いづらいので敢えて伏せる。
原田さんは私の言葉を聞くと何故だか黙り込み、少し真面目な顔になった。
この人と良い、斎藤君や沖田君と良い、うちの会社には本当にイケメンが揃っていると思う。
その人達と顔馴染みである私は、もしかしたら物凄く贅沢なのかもしれない。
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