九
先日、予期せぬアクシデントでパソコンが落ち、製作途中の資料データが全て飛んだ事があった。
その時は会社に泊まり込み、夜を徹して一から作り直しをしたのだった。
だが、今日ばかりはその様な訳にはゆかぬ。
その際の事を教訓として、二度と泣きを見る様な真似はすまいと、マメにUSBへの保存を繰り返しながら漸く此処まで来た。
終わった。
これで全部だ。
パソコンの電源を落とし、長い溜め息を吐いて眼鏡を外す。
非常に疲れた。
目の間を指で押しながら背凭れに身体を預けたが、気持ちを切り替えてすぐに立ち上がった。
後は始末を付けてタイムカードを切って、先に行ったナマエを追うだけだ。
今し方出て行ったばかりだから、急げば駅で捕まえられるかもしれん。
『一君、今終わり?』
微かに心を弾ませる俺の背中に、不吉を感じさせる声が聞こえた。
表情を消した目で振り返ると、案の定総司がにやにやとした顔でやってきていた。
『何だ』
邪魔立てするな、という感情を込めた声は、自分でも解る程冷たい色をしていた。
だが、常に飄々としている総司にはこれくらいで丁度良いだろう。
寧ろまだ甘いかもしれないな。
『うわ、その言い方傷つくなあ』
俺の拒絶の意志などお構いなしにこちらへ近付き、総司は机の縁に軽く寄り掛かった。
ギシ、という鈍い音がした。
『ナマエちゃんって先帰ったんだよね?』
こいつとは正直問答はしたくない。
その先に待つ終点が、大抵ろくな事では無いからだ。
『それがどうした』
直接の返事をしない事を以て首肯とする。
すると、
『ついさっき左之さんが来てね、ナマエちゃんの事を探してたから、
“ナマエちゃんなら先に帰ったよ、今ならまだ間に合うんじゃないかな”
って言っちゃったんだよね』
『!?』
よかった、間違った事言ってなくて、等と総司がとぼけた事を抜かしていたが、耳には入って来なかった。
拙い。
頭から血の気が引く思いがする。
俺の勘が警鐘を鳴らしている。
俺は直ぐ様必要最低限な帰り支度を整えて、鞄と防寒具を引っ掴み、人を食った様な顔の総司のわきをすり抜けて駆け出した。
未だにナマエを憎からず思っている左之にとって邪魔な俺が此処にいて、そのナマエが一人で帰ろうとしている。
左之が取る行動は火を見るより明らかだ。
あいつはナマエの後を追う。
そして何かをするに違いない。
エレベーターまでやって来るが、一階で止まったままであった。
上って来るのを待つより、階段を走った方が早い。
半ば殴る様な勢いで防火扉を押し、俺は猛烈な勢いで非常階段を下り始めた。
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