四
あまり総司に近付くな、と言った時の俺は、一体どの様な顔をしていただろう。
俺を見るナマエの目は、何故だか遠くを映しているように見えた。
『お忙しい所すみません』
席に戻った俺のもとに、温和な人柄を思わせる笑みを湛えて雪村がやってきた。
今ではすっかり技術等を自分のものにした彼女ではあるが、まだ新人である事には変わりなく、よくこうして俺に教えを乞いにくる。
彼女の指導をしてやりながら、先程の総司とのやりとりで湧いた黒い靄を胸中から追いやる。
礼を言って自席へと去る雪村を見送って、俺はもう一度自分の仕事に向き直った。
小さな溜め息を吐き、ナマエが淹れてくれた緑茶を啜りながら席を立つ前に置き去りにした資料の束を手に取る。
…今夜はナマエを家に招く故、何がなんでも此処までは終わらせたい。
家に仕事を持ち帰らねばならない、などという事態にはしたくない。
パソコン用の眼鏡を掛けてから、スリープ状態になった画面を起こす。
一瞬のうちに明るくなったそれに目を細めて、俺はマウスでカーソルを動かし始めた。
『あれ?紅茶じゃないの?』
はいどうぞ、とマグカップを渡した千ちゃんからそんな言葉が返ってきた。
『…あー、うん』
本当は紅茶を淹れるつもりだったのだが、緑茶が好きな斎藤君に合わせてこちらも緑茶にしたのだ。
曖昧な返事をすると千ちゃんは不思議そうに、ふーん、と言った。
『別に嫌な訳じゃないんだけどね。どうもありがとう』
『はいはい、どう致しまして』
変に突っ込まれずに済んだ事にホッと胸を撫で下ろして、私も自分の席に戻った。
千ちゃんは妙に優れた観察眼を持っていて、こと恋愛に関しては恐ろしい程鋭い。
斎藤君が給湯室に行った事に気付いてないのかも。
ま、いっか。ラッキーラッキー。
『…有難うございました、失礼します』
一列向こうの席から雪村さんの声がした。
直属の先輩である斎藤君に何かを教わっていたのだろう。
前は気になって仕方がなかった二人の会話が、恋人になれた今では全く気にならないから現金なものである。
私はお茶をひと啜りして、幸せな溜め息を吐いた。
よし、あとちょっとを仕上げてしまおう。
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