三
『ははうえ!あれをみてください、キノコがなっております!』
千束がナマエの手をくいくいと引き、自分が見ているものと同じものを見せようとしている。
ナマエは歩を緩めてそちらへ顔を向けた。
『どこ?』
『こっちでございます!』
息子に手を引かれるまま、進路を外れて一本の横木へ向かうと、木の皮の間から黒灰色の平たい茸が群生していた。
『あら、平茸ね』
ナマエが呟くと千束はぱっと母を見た。
『ははうえは、このきのこをごぞんじなのですか?』
ナマエは淡く笑んで千束を見返した。
『ええ、茸は母の大好物だもの。
平茸は千束も食べたことがあるでしょう?
確かついこないだ、夕餉に出たはずよ?』
千束は母の顔を見ながら口をぽかんと開けた、考えを巡らせている表情になった。
そして、は、と物思いから醒めて小さく、あれかあ、と呟いた。
ナマエは目を細めて息子の頭を撫でた。
『それから、茸は“生る”のではなく、“生える”ものよ。
“生る”のは、木の実や果物。
よく覚えておきなさいね』
『…わかりました』
母に頭を撫でられて嬉しいのと、覚えたての言葉を早速使ってみたがそれが間違っていたのとで、千束の耳は恥じらいで赤くなった。
『…奥方様?』
後ろから着いてきていた乳母と三女を抱いた侍女達が、先を行く風間たちから遅れていることをやんわりと伝えてくる。
少しくらい大丈夫なのに、と思いながら、ナマエは息子を促して再び歩き出した。
離れたところにいる夫と娘の背を見ながら、一体どのような会話をするのだろうかとナマエは思った。
『千賀』
父に名を呼ばれ、千賀は顔を上げた。
父は右手に摘まんでいる団栗の枝を見せながら続きを口にした。
『何故この団栗を父に渡した?』
『…っ』
やはり迷惑だったのだろうか、という思いが真っ先に千賀の胸を突いた。
娘の顔付きがさっと変化したが、風間はそれには触れなかった。
黙ったままで答えを待つ。
少しの間、千賀は返答に窮した。
大した理由は無いのだ、ただ、
『…ふたつのどんぐりが、ちちうえとちかみたいだとおもって、それで…』
何となく父に見せたくなり、何となく持っていて欲しくなっただけなのだ。
それが何故なのかは解らない。
何と言ってよいのか解らず、後の言葉を継げずにいると、思わぬことが起こった。
繋いでいた手が離れて、その手が頭に置かれたのだ。
『…』
驚きと喜びで背中がこそばゆくて肩を竦めると、頭に置かれた父の手がゆっくりと自分の頭を撫でた。
千賀が盗み見るように父の顔を窺うと、笑いこそしていなかったが、至極優しい顔がそこにあった。
ふと目と目が合い、千賀はますます言葉に詰まった。
そのまま何も言えずにいると、父は最後に指先で千賀の前髪を左右に分けて頭から手を離し、千賀に向かって手を差し出した。
父ともう一度手を繋いでも良いのだと思うととても嬉しかった。
千賀が破顔して父の手を取ると、風間は釣られるようにしてかすかに口角を上げたのだった。
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