十
山深く分け入り、結界の境を越えた頃から、辺りの景色が少しずつ変わってきた。
山道を馬で進むのは、馬にとって負担となる。
自らは下馬し、息子のみを鞍に乗せてナマエは轡(くつわ)から伸びる手綱を引いて歩いていた。
身体は疲労で重たいが、それでも辺りの景色を楽しむ余裕はまだあった。
鬼の里は不知火の里しか知らないため、余所の里というものが何だか目新しい。
しかも此処は西国を代表する鬼の里。
最も強い力を持つ鬼を当主に据える里というものが如何なるものか、ナマエは大変興味を引かれた。
『わあ…!』
里が一望出来る場所に出た時、思わず感嘆の声が口から零れた。
深い山奥にこれ程の里があるなど、一体誰が考えつくだろう。
広大な土地、豊かな田畑。
此処から見る景色はまるで高名な絵師による一枚の錦絵のようであった。
額に滲んだ汗を、下から吹き上げる風が撫でていった。
瞬時に熱を奪われた額は涼しく感じ、身体がすっと軽くなった思いがした。
少し先を行く不知火の呼ぶ声に招かれて、ナマエは彼方の高台にある風間の屋敷を目指した。
それから少しして、漸く一行は屋敷の門を潜った。
時刻にして八つ時の頃である。
予定よりだいぶ早く着く事が出来た。
門番に馬を預け、屋内に入った所で良く見知った顔を見つけた。
不知火は思わずにやりとした笑みを浮かべた。
『よう!』
片手を上げて親しげに声を掛けると、相手は懐かしそうに目を細めた。
『久しぶりですね、不知火。変わりはありませんか』
出迎えには天霧が来ていた。
『まあな。変わらねぇっちゃ変わらねぇけど、』
不知火は一度言葉を切り、後ろに控えているナマエと息子を見た。
『嫁とガキが出来た』
若干はにかみながら言葉を紡ぐ不知火の様子から、天霧は彼がとても幸せである事を理解した。
そして微かに口角を上げてナマエ達を見遣り、一度頭を下げた。
『ナマエ殿、ですね』
『…はい』
天霧の低い声に名を呼ばれ、ナマエはつい背筋を伸ばした。
『風間家の家臣の長を務める天霧と申します。
本日は遠路はるばる、風間の里へようこそお越し下さいました』
そう言って深く頭を下げた天霧に続き、こちらこそお招き頂きまして、と、ナマエも頭を下げた。
『風間とミョウジが待ちわびています。どうぞお上がり下さい』
不知火とナマエはそれぞれ長靴(ちょうか)と脚半を脱ぎ、用意された桶で足を清めてから上がった。
『陽、』
不知火が呼ぶと息子は両腕を広げて駆け寄って来た。
それを片腕で抱き上げると、彼は妻を隣に連れて、久方振りに風間の屋敷を闊歩した。
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