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 冬休みが終わってみんなが登校してくる。僕も、彼女も登校してきた。長い休みの後は、誰だってぐったりとする。それはクラスの人も、教師も、僕もそうだった。でも彼女は違って、休み前と変わらず黙々と授業に取り組んで積極的に手を挙げていた。

 彼女は普通の人とちょっと違った。でもそれは片手がないからではなかった。

 終了式の後、クラスで写真を撮った。春になればまた違うメンバーのクラスになる。みんな良い笑顔で写真に収まった。僕もにっかりと笑って、彼女は大人しく微笑んでいた。

 長い式も終わって、言いたいことを言い切った校長先生のご満悦顔に見守られながら体育館から出て行く時、僕の背中に何かが当たった。

「芹沢くん」

 彼女の右手だった。

「放課後、良い?」

 僕はただ頷いた。何も言えなかった。彼女は、授業や作業の時しか話をしなかった。こんな風に呼び出されるなんて、想像もしていなかった。

 何だろう。そればかりが頭の中をぐるぐると渦巻いて、先生の長々とした話なんて聞いていなかった。

 クラス全員でさようなら、と言い終えた瞬間、僕は隣を見た。明日から春休みだ、と騒ぐ教室の中で、彼女は微笑んだ。

「ありがとう」

 彼女は言った。

「この一年間、助かったよ。片手がないから何かと不便で」

 そう言う彼女の表情は明るかった。

「芹沢くんが隣でよかった。ありがとう」

「いや、そんな……何もしてないよ」

 僕は正直に言った。

 初めて会った時、僕は彼女に戸惑った。彼女のことを、自分とは違う生き物で、笑うことができないと無意識に思っていた。だから彼女の笑顔に驚いた。

 今だからわかる。彼女は普通の人だ。ただ、片手がないだけ。

 それを約一年前の僕はわかっていなかった。

「ありがとう」

 彼女はもう一度言った。赤い唇が嬉しそうに微笑んだ。

「片手がなくてよかった」

「……え?」

 思いもしない言葉だった。びっくりする僕に、彼女は続けた。

「だって、片手がなかったから芹沢くんと仲良くなれたんだもん。片手だけだと出会いを呼べるんだね」

 文学的な言葉だった。理系の僕はその表現の仕方がかっこよく思えて戸惑った。

「じゃあ……両手がある僕は、出会いは呼べないのかな」

 戸惑った挙げ句そう言ってしまった。言った後、彼女に僕との差を見せつけてしまったことに気付いた。

 彼女には片手がない。僕には両手がある。

 しまったと思った僕に気付かないふりをして、彼女は微笑んでくれた。

「片手でこんなに素敵な出会いをしたんだもん、両手だったら二倍だよ」

 うらやましいな、そう彼女は言った。その声にねたみはなくて、ただのうらやましさしか聞こえなかった。すごいなと思った。純粋に、彼女はすごいと思った。

 こんなにつらい思いをしているのに、言葉の端にさえも暗い感情を乗せないのだ。

「そう、かな」

 僕はようやくそう言った。

「そうだよ」

 彼女は笑った。綺麗な笑顔だった。

 そうだね。僕の両手は君を呼べたんだもの。

 そう言いたかったけど、あいにく僕の口はきざなセリフは通さないようだった。暗い感情をみじんも見せない彼女、本心を格好付けて言えない僕。

 どう見たって両手のある僕より片手しかない彼女の方が上で。じゃあ僕の欠けていない手は何なんだろうと思った。彼女のようになれるなら、僕も片手でいたい。そう思ってしまいそうになるくらい、彼女がうらやましかった。

「……僕は、僕に両手があって良かったと思いたいな」

 今度は正直に言えた。その分、胸は重くなった。

 申し訳なかった。彼女には言ってはいけない言葉のような気がした。

 僕の気持ちに気付いただろうに、相変わらず彼女は知らないふりをして微笑んだ。

「思えるよ。だって、両手があれば誰かをハグできるもん」

「ハグ?」

「片手じゃ中途半端なんだ。それに、落ち込んでいる人の手を包んであげることもできないし、雨の中自分の分の傘しか差せないし。片手は自分のことしかできないけど、両手はね、誰かのために使えるんだよ」

 彼女の明るい声に、僕は黙り込んだ。

 両手は誰かのために使える。けれど。僕は、今まで一度だって誰かのために両手を使ったことがあっただろうか。誰かを抱きしめ、誰かの手を包み込み、誰かに傘を差しかけたことがあっただろうか。

 教室は静かだった。みんな、早く帰って遊びに行くのだろう。教室には僕と彼女だけだった。

 僕は臆病だった。彼女を異物扱いして避けていた。彼女が明るい性格じゃなかったら、きっと僕は一生彼女を異物扱いしていただろう。目を逸らして、腫れ物のように扱って。

 僕は心の中で何度も自分を励ました。そして、彼女の片手を見て、そして、そっと両手を伸ばした――つもりだったけど、僕の両腕は頑固なおじいさんのように、膝の上から全く動かなかった。

「じゃあ、始業式にね」

 彼女はそう言って椅子から立ち上がった。ガタリと椅子が鳴った。

「また同じクラスだと良いね」

 そう言った彼女に、僕はただこくこくと頷いた。彼女は一度礼をした後、くるりと振り返って教室を出て行った。

 一人ぼっちの教室で、僕はしばらく自分の両手を見つめて、彼女の片手を包んであげられなかったことにがっかりしていた。




 彼女と僕が同じクラスになることはなかった。というか、顔を合わせることすらできなかった。僕が引っ越したからだ。唐突に決まった引っ越しのおかげで、僕は隣の県の学校に行くことになった。彼女に挨拶はできなかった。連絡先も交換していない。

 何年か経って、僕はまあまあ頭の良い大学に入学した。大学生活は楽しかった。ボランティアに参加して、両手を使っていろんなことをした。僕なりに両手でできることをしている。

 でも、彼女はここにいなかった。いつからか彼女がいない日々を憂う僕がいた。

 そんな僕のもとに、成人式後の同窓会の手紙が来ている。彼女に会えるだろうか。そう思うだけでわくわくしてしまう僕には、修正液使用不可の手書きレポート三十枚という宿題が残っている。正直嫌だ。でも、黙々と勉強していた彼女の片手を思い出せば、僕の両手が負けるわけにはいかなかった。

 そう思ってからもう一週間は経つ。僕はどうやら、彼女に敵いそうにない。

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