彼女には片手がない。

 なぜかは知らない。興味がなかった。僕はただ、貼り出された通りの教室に入って、指定された通りの席に座ってぼうっとしていた。周りは春の陽気のように新しいクラスのメンバーが話していて、友達の少ない(いないわけではない)僕はただただぼうっとしていた。

 彼女が教室に入ってきた瞬間、教室の中は一気に静まりかえった。

 入り口で一瞬立ちすくみ――何事もなかったかのように彼女は教室の中に入ってきた。長い髪に隠れて表情は見えない。ただ、一目見て、彼女の体が普通でないことはわかった。ブレザーの片方の袖がだらりと下がっていたからだ。

 しんとした教室の中で、そういう反応は慣れている、彼女はそう言いたげな雰囲気をまとっていた。何だか申し訳がなかった。両手がある僕は彼女に反応してはいけないだろうし、見てはいけない気がした。気にしてしまってもいけないし、強引にでも彼女を一人の普通の人間と捉えなければいけない気がした。だから、僕は彼女を視界にいれないように下を向いていた。だから気付かなかった。

 教室が再びざわめき始めた時、僕は隣に誰かが座っていることに気がついた。誰だろう、いつの間に。そう思って、顔を上げて、そちらを見てしまった。

 彼女が、そこにいた。

 長袖のブレザーの片方が鞄の中から筆記具を取り出していた。もう片方の袖は、ぺちゃんこに垂れていた。肘から上と胸で鞄を押さえて、慣れたように道具を取り出していた彼女は、ふとこちらを、見た。

 目が合った。

 どうしよう。そうとしか思えなかった。他の人なら、曖昧に笑って、名前を聞いたり、どこの中学校出身かなどと聞いたりできたはずだった。

 僕の視界の中央で、彼女は丸い目で僕を見つめていた。僕も呆然と彼女を見つめていた。

 何秒経っただろう、しばらくそんな気まずい沈黙が二人の間に流れた時だった。

 僕の視界の中心で、唇が動いたのが見えた。

「よろしくね」

 彼女は、そう言って、微笑んだ。普通の、綺麗な笑みだった。まつげにふちどられた目は黒くて丸くてぱっちりとしていて、唇は薄めで健康そうな赤だった。ニキビのない綺麗な白い肌。美人だった。

 僕はただ頷いた。何も言えなかった。びっくりした。片手のない彼女の笑みが、普通の人と同じだったから。そうして気付いた。

 両手がある僕は、片手がないというだけで、彼女に対してずいぶんな勘違いをしていたようだ。

 恥ずかしさで真っ赤になる顔で、僕はこくこくと頷いた。彼女は一度礼をした後、何事もなかったかのように正面に向き直った。

 それが、彼女と初めて会った入学式直前だった。




 彼女は意外にも普通の人間だった。むしろ他の人より行動的だった。授業の時だって眠ったり携帯電話を使ったり他の人と話したりしている人がいる教室の中、一人だけ手を挙げて発言していたし、休憩時間だって器用に机の中を探って次の授業の準備をしていた。

 体育の時間も、片手で器用にバスケットボールを操っていた。両手がある僕は片手しかない彼女からボールを奪えなかった。不用意に近付いたら彼女を倒して怪我させてしまいそうで、怖かった。他の女子からは簡単にボールを取るのに彼女には手を伸ばすことさえ躊躇ってしまった。そんな僕に、非難の声はなかった。誰もが――女子までもが、彼女との物理的距離に、そして精神的距離に戸惑っていた。

 そんな教室の中で、彼女はいつも穏やかだった。

「柏原、箒は? ないのか? じゃあ机運びを――」

 掃除の時間、そう言った後、彼女が机を抱えられないことに気付いた教師が愕然とする前で、彼女は片手で椅子だけを運んで机を僕に頼んだ。彼女は誰のどんな失言にも反応しなかった。慣れている、そう言いたげな雰囲気で自分にできる範囲のことをしていた。両手のある僕は申し訳なかった。どうしても、彼女を特別扱いせずにはいられなかった。

 ただ、片手がないというだけで。

 そんな彼女が困ったような顔をしたのは、物理の授業の時だった。

 物理の授業で出てきたある単語に、心底困ったように眉を寄せたのだ。

「磁場の中で電流を流すと、力が発生する。これの向きが、よく覚えさせられたんじゃないかな」

 理科の先生はそう言って、自分の左手を生徒達に見せた。

「左手の法則というやつだ。覚えているだろう。こう、親指を上に、人差し指を前に、中指を右側に」

 その時、視界の隅でガタリと椅子が鳴った。うとうとしていた僕ははっとして、隣を窺い見た。彼女が、俯いて、膝の上の自分の右手を見ていた。

 そう、彼女には左手がない。

 教師は彼女の様子に気付くことなく左手を使って話を進めていく。みんなは彼女を気にしつつ、左手をあらゆる方向から見て理解に努めていた。目で見れば、体で理解すれば、簡単に理解できる話。しかし、彼女は。

 僕はやはり、彼女を特別扱いせずにはいられなかった。

 椅子を横にスライドさせた。ガタリ、と僕の椅子が鳴った。隣で彼女は驚いたように身をすくませた。そんな彼女に、僕は左手を差し出した。

「見る?」

 一言呟いた、ただそれだけだった。

 なのに、彼女は、驚いたように目を丸くした後、笑ったのだ。

「ありがとう」

 そう言って、嬉しそうに笑った。普通の人より綺麗な、感情のこもった笑顔だった。




 一年中席替えはなかった。クラス担任が面倒臭がって、やるなら自分達でやれと言った。無論僕たちにそんな面倒なことをする気力はなかった。だから一年中、彼女と僕は隣だった。

 一年経つ間に、彼女とはよく話すようになった。よく話すと言っても、授業でわからないことを聞いたり、彼女の作業を手伝ったり、そのくらいだった。

 その頃には彼女からバスケットボールを奪えるようになった。他の男子も女子も、彼女とボールを取り合えるようになった。球技大会の優勝の時はみんなで肩を抱き合って喜んだ。みんなと彼女との物理的距離も精神的距離もだいぶ近付いていた。

 冬になって部活が盛りを終えると、期末テストに向けて勉強する日々になった。僕がうんうん唸っている横で、彼女は黙々と問題集と向き合っていた。ただ、たまに、声をかけられることがある。

「ねえ、芹沢くん、左手見せて」

 そう言う時の彼女はちょっと恥ずかしげだった。僕はそれを見ないふりをして、左手の法則を見せた。彼女は小さくありがとうといって、僕の左手をじっと見つめていた。

 期末テストで左手の法則は出なかった。

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