今様歌物語
〜ここにいたい〜

前編 06


 活動のない日の部室は閑散としているどころか人の影さえない。地上からずいぶんと離れた五階の隅の教室は人のための空間とは違った空気を持っている。


「わざわざサークル長が直々に連絡をよこしてくれたと思ったら、勧誘ですか。光栄です」


 速水くん挑戦的な口調は、それでも憎みきれないものがあった。彼の実力を知ってこちらが気後れしているのかとも一瞬思ったけれど、そのような圧力は正直微塵も感じていない。


「文学が嫌いなわけじゃないですよ、第一そんなことは一言も言ってない。でもあれは真実で、本心です。言い方は悪かったかもしれないけれど、あれに関して今先輩から何を言われたとしても俺の心は変わらない」


 意志の固さが眼光に現れている。その光の鋭さは、どんなに固いものも削ってしまうダイヤモンドのようでもあった。


「余計に分からない。君が才能に恵まれていることを知ってからは尚更だ」


 灯火野くんが先に口を開いた。それを聞いてハァ、とため息をついた速水くんは、石川さんにでも聞いたんですか? と小声で呟いた。


「本当なら俺だってあのサークルにいたいです。お二人の自己紹介だってちゃんと聞きました。先輩達とここにいればきっと自分を塞ぎ込まなくてよくなるんだろうなとも思いました。そして何より、楽しいんだろうなって」


 『楽しいと思う』。この言葉が聞いて肩の筋肉のこわばりが解けた気がした。私たちが、そして岡田さん達が求めていた空間を、まだ引き継げているという証そのものだから。

 しかし悲しいかな、私はその先の文脈を感じ取ってしまう。でも=c…。


「でも、ここじゃ無理なんです。ここにいることは、俺の全てをまた壊していく」


 ああ、彼は、そこまで言ってしまうんだ。


「壊すってなんだ? ここはそんなに君にとって価値のない場所だって言うのか」


 灯火野くんが声を低くする。先輩……と小さく呟いた速水くんは肩を落として、少し悔しそうな顔をした。


「先輩には本当に悪いと思ってます。でも、無理なものは無理だ。……もういいですね、失礼します」

「速水くん!」


 私の呼び止める声も虚しく、速水くんは小走りで講義室を出て行った。強く噛み締められた薄い唇が、彼が去った今でも私の心を不安定に揺るがす。

 彼の背中が消えた、それとほぼ同じタイミングで扉に大きな何かが叩き付けられる音がする。なにかと思って一目散に灯火野くんと駆けつける。


「痛った……」

「い、石川さん……?」


 そこにたたずんでいたのはサークル長だった。てっきり速水くんが感情をぶちまけてドアでも殴ったのかと……。


「様子だけ見てたのよ。なんかヒートアップしてると思ったら急に彼が飛び出してくるし……。すれ違い様にちょっとぶつかっちゃっただけ、心配ないわ」


 すっと立ち上がると、少し足首をまわして「うん、これくらいなら」と一人で呟いた。

 石川さんは少し問いつめるような目つきに変わる。


「……で? やっぱりダメだった?」


 取りつく島もなかった。はい、と灯火野くんが静かに頷いた。


「そう。……ま、サークルに入るか入らないかは速水くん個人の問題で、自由でしょう。そうやってあれこれと詮索したり彼を特別視するのは良くないわ」


 最もな意見である。口をつぐんでしまう私の一歩前を出て灯火野くんが口を開く。


「確かにそれは間違いではありません。でも、彼は入りたいという気持ちは持っているんです。ただ、入れない事情があるって……。

 先輩、確かにここは入るものを拒まず、去る者は追わない空間です。部員のための空間作りだって、とても大切です。でも、だからといって入りたい人≠ないがしろにするのはいけないんじゃないですか? 入れない原因がこちらにあるとしたら、それをどうすべきか一緒に考えて後輩を支えるのが、先輩としての僕たちの仕事なんじゃないですか」 


 石川さんと灯火野くんが真っ直ぐに対峙した数秒ののち、一文字を描いていた石川さんの唇がふっと緩んだ。


「まあいいでしょう、あとは私は関与しない。彼のことは二人に任せるわ」


 岡田さんたちが作ってくれたこのサークルを守りたいと思っているのに、振り返ってみればさっきまで私たちがやっていたことはどう考えても不器用な勧誘にしかなっていない。

 ――悔しい。


『君の歌を理解してくれる人がいてくれたとしたら、それは君自身の理解者と言って言いすぎじゃないと思わないか』


 白く長く伸びる廊下の奥で小さくなる石川さんの背中を灯火野くんと見送りながら、私は思い出していた。一年前のあの日。ちょうど一年前の今日のことだ。

 私はあの日、にぎやかなこの部室の前で足を止め、恐る恐ると言った風に呼吸していた。

【中編に続く】

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