今様歌物語
〜忘れられない〜
第二章 文字少し君の心に流し入れ色づき夢幻華咲きおりて
可能性としては十分想定され得る、まったくあり得ないことではなかったのに、僕はその状況に焦っていた。
サークル活動は週に2、3回。その日の予定は岡田さんから部員全員にメールで連絡が行く。出席もメールでとる。何回か活動すれば、部員の温度差もだいたい分かってくる。つまり、本気じゃない奴は来なくなる。
「今日もみんなちゃんといるね」
と新入生を見渡しながら岡田さんは言うけど、「ちゃんと来る人たちみんなが来ているね」という意味の表現にすぎない。
それなのに……僕は納得のいかないあまり憤慨さえしていたかもしれない。
僕の隣の椅子に腰掛けた岡田さんが、一人呟いた。誰にも聞こえないくらいの声量だったので、それに気付いたのは一番近くにいた僕くらいのものだった。
「雨掛くんが、来ないんだよなぁ……」
彼はそう言ったのだ。
彼女が初日以来サークルに顔を出さない。僕はその事実に焦りを感じていた。次に彼女がサークルに参加したときに声をかけよう、と心に決めていたのにそれが出来ない。僕は、この宙ぶらりんな気持ちが運命によって弄ばれているような気さえした。
君のことを思い出す。君はいつも、何の前触れもなく現れた。そして、姿を消すとすぐに現れてはくれなかった。そんな思わせぶりで気まぐれな君を、時に僕は恨んだりもしたけれど。
今回もそうなのか? 僕は期待してもいいのか?
僕はただ君に会いたいだけなんだ。会って、話がしたいだけなんだ。
「灯火野くんはどういう風に小説を書いてるんだ?」
サークル活動を重ねるうち、僕は岡田さんと話すことが多くなった。岡田さんの書いた作品もいくつか見せてもらった。彼の作品は、発想の意外性が読者を魅了し読ませるようなものだった。一行一行に無駄がなく、世界が実にシャープに観察されている。少し皮肉っぽいところがなんだか岡田さんらしくて、どれもこれも好感が持てる作品だった。
「それは、僕の小説の書き方、ということですか」
「そ。どういうときにアイディアが浮かぶかとか、一つの作品にどれくらいの時間をかけるかとか……おっと、これ以上条件を付け加えるといけないな。これ以上は君の発想に任せるとしよう」
話していてだんだん分かってきたことなのだが、岡田さんはどうやら僕を買いかぶってる節がある。今みたいな感じで何かと僕を試そうとする。でも上手いことに、僕はそういう扱われ方が嫌いじゃない。つまり僕の岡田さんに対する感情は、「いつでもかかってこい」的な臨戦体制というわけだ。もちろん、いい意味で。
「そうですね……」
僕は思っているままに答えた。
「特別に『こういうときに』っていうのはないと思います。ただ、眠りにつく前の布団に潜っている間に色々思いついたのに、そのまま就寝に入ってしまって朝起きたら忘れる、という惜しいことを何回か繰り返してしまったことならあります。そういうことにならないよう、今は枕元にメモ帳を置くようにしてますね。着想が浮かんだら、眠る前に書く、と。
それから、作品にかける時間、ですか。作品の思い入れの度合いや長さにもよりますが、短くて一ヶ月、長くて三ヶ月から半年くらいだと思います。あまり好きではないのでしたくないのですが、違う作品を並列して書くこともあります。僕の中の『書きたいこと』の方向性が違ってきたときにそういうことが起こったりします」
「『書きたいこと』について、もう少し詳しく話せるかい」
楽しそうな表情で聞いてくれる人がいるのは、話してる立場としても嬉しいことだ。
「はい。……初め僕は、僕が書きたいことを書ければそれでいいと思っていました。小説は、小説家が言いたいことを言うための媒介でしかなくて、文学は常に一方向的なものだと思っていました。
でもあることがきっかけで、それは違うんだって分かったんです」
ここで言葉を切る。岡田さんはすでにとても満足そうだ。
「僕が僕のことだけを小説に書いて人に読ませたところで、何も生まれないし何も面白くなんかないんです。書き手がいて、読み手がいて、そして初めて文学はそこに存在する。それなのに作品自体が書き手の独りよがりだったら何も成立しない。……そう思うようになったんです。
僕は作品に対して妥協したくありません。僕だけが書ける作品を書きたいと思っています。そのために僕は、本当の『僕が言いたいこと』を常に考えている必要があります。
じゃあ、『僕が言いたいこと』ってなんだろう。『僕が言いたいこと』って、僕の中にあるものなのでしょうか」
……もちろんこれも反語表現だ。『僕の言いたいこと』は僕の中にあるのか? ――いや、ない。
「『僕』よりも外側の世界の声を聞く耳を持ち、それを消化吸収してその外側よりももっと外側に発信すること。それこそが僕の使命だと気付くことが出来ました」
岡田さんは僕の話を最後まで聞いてくれる。途中で口を挟むことはしない人だ。
「自己紹介のときにも言ったかもしれません。今から言うことはその繰り返しになるかもしれません。
『僕の言いたいこと』は僕よりも外側にあります。僕の使命は、誰かの気持ちを、どうにもならないあがきを大勢の人々に伝えること。その伝えなければならないことは僕の周りにあるんだということです」
「そうか」
「ただ、僕にはまだ発信する力が足りません。でもいつでも発信できるように、作品を書きためているつもりではいます」
「……『発信』のことはあまり考えたことはないな。このサークルがそういう場になるよう、俺も考えてみるよ」
生産的な会話はとても楽しい。
「あ……ちょっと待って!」
数千人がひしめく構内で再び彼女と出会うことができたのも、使用する講義室の限られた新入生であることを差し引いたとしても、そのときの僕には偶然の産物とは思えなかった。
僕はサークルに彼女が参加する日をじっくりと待つことしか出来ないと思っていた。しかしすれ違う人影に彼女を見つけた時、何を考えることもなく僕は彼女を呼び止めてしまっていた。
そんな中でも、出来るだけ自然な流れを意識しようとはする。
「ええと、初めまして。僕、灯火野って言います。灯火野、智哉」
ヒビノ、トモヤ。彼女が僕の名前を反芻した。初めて聞いたという風に。
「僕も文学サークルに今年から入ったんだ。自己紹介のときに雨掛さん、歌を詠んだでしょう。あれがすごく印象的で……一度、話がしたいと思ってて」
おかしな文脈になってはいないだろうか。まるで中学生が書いた小説の会話文のようだ。こういう状況での会話術というものが存在するというのなら、身につけておきたかったものだ。
僕が好機を待ってまで彼女に話しかけたかった理由は、ただ一つ。
(彼女は君なのか?)
僕はただ、確かめたかったのだ。
「どうして『歌』っていう表現を選んだの?」
彼女が君であってほしいと思う反面、君にはもう会えないんだというある種の固定観念が僕の判断を苦しめた。その二つが僕の中で共存していることこそに、僕は苦しんだ。
「どうして、ですか」
僕から視線を外し、虚空を横目で見つめながら軽く口をすぼめている。これは彼女なりの考えるときの仕草なのだろう。やっぱり少し、違う気もする。
「文字少し君の心に流し入れ色づき夢幻華咲きおりて」
そう思ったのはしかし束の間だった。この歌を、君の姿をして君の声を持つ彼女の口から聞いたら、
「ねえ……」
判断も何もかもが僕の中で暴発して壊れてしまう。
「やっぱり君は、緋穂さんなんだろう?」
どうしてこんな風に断定するような言葉を選んでしまったのだろう。
彼女は不思議そうに僕を見つめた。その瞳を、懐かしいと思った。
「そうです、けど……」
しかし僕はそこで気付くべきだった。彼女だって、「ヒスイさん」だということ。それから、君が僕に敬語を使ったことなんて、一度も無かったということを。
「本当に……そう、なんだね」
しかし悲しいことに、僕の暴走はそんなことにさえも気付かない。
僕は彼女の手をとった。僕は君に触れたことは一度も無かった。だからなおさら、彼女の手の温もりを感じて勝手に感動を深く胸に刻んでいた。
「あ、あの……」
「会いたかった」
彼女の言葉を遮る。僕が握力をいっそう強くしたから、そしてなにより、あまりにも真っ直ぐに彼女を見つめていたからだろう。彼女の瞳は完全に怯えていた。
僕の両手は彼女によって強引に振り切られた。震える僕の十指がむなしく空気を握る。
「やめてください。……あなた、なんなんですか?」
なんなんですか?
なんなんですか? なんなんですか?
彼女の声が頭の中でエコーする。カメラの連写のように映る僕の視界から、彼女はあっという間に消えてしまった。
彼女の表情が嫌悪一色だったことに僕は愕然とせざるを得なかった。
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