今様歌物語
〜忘れられない〜


第三章 彼がために贈る紫苑に滴落ち黙したままに誰が名を呼ぶか

「何があった」


 『聞いてほしい話がある』と珍しく僕からメールしたことに驚き、岡田さんは心配したのだそうだ。


「すみません、ご心配をおかけして……」


 部屋に来てもらうのも部屋に上がるのも図々しい気がして大学近くの喫茶店を指定したが、岡田さんは「俺の部屋でいいだろ」と言って僕の気遣いを聞かなかった。正直ここまで気にかけられているとは思っていなかった。

 小さなテーブルを挟んで向かい合うように座る。ペットボトルのお茶まで出していただいた。

 僕は話すのは好きだが、好きというほど実際上手くはない。脈絡を意識するのが苦手なのだ。混乱しきったそんな僕の話を聞いてくれ、あわよくば理解してくれる人を、と考えたときに真っ先に、そして唯一思い浮かんだのが岡田さんだった。

 僕は彼に何も話していない。どこから話せばいいのかも分からない。手当り次第に話を始める前に、僕はある二つの作品を岡田さんに手渡した。


「沢山話したいことがあるんです。でもまずは、これを読んでもらえませんか」


 岡田さんは快く受け取ってくれた。


「僕の話を聞いて気違いだと思ってくれても仕方ありません。でも話さずにはいられなかったんです」


 それに対する返事はない。岡田さんが作品を読み終えるまでの沈黙の間も、僕の頭の中は何の整理もつかずにいた。

 長い息をついて岡田さんはテーブルに作品を置いた。相変わらずの速読技術だ。その様子をまじまじと窺っていると、岡田さんが沈黙を破った。


「……こいつは、いつ書いたんだ?」


 僕には、正直に答えることしか出来ない。


「最初のは高校二年の冬から春にかけてです。二つ目は、高校卒業してから大学入学前までの期間です」

「ヒビノとヒスイ、ねえ……」


 その一言で、岡田さんは僕の話したいことを半分は分かってくれている、ということを察知した。

 僕は『かいつまんで』ということが苦手だ。時間をかけて話せる限りの全てを話した。鳥遊緋穂との出会いと別れ。この二つの作品が出来るまでのこと。雨掛陽瑞との出会い。二人が瓜二つであること。二人が同一人物でないと頭では分かっていながらも、それを受け入れきれなかったこと。そして、彼女に対する僕の失態。

 最後に関して岡田さんは「お前がそんな行動に出るとはね」と言った。別に軽蔑するような響きではなくて、そんな風には見えないけどね、くらいのニュアンスだったのだが、なんとも居心地が悪かった。


「『なんなんですか?』は辛かっただろうな。しかしまあ、雨掛くんがその話の中の緋穂と別人であるというならば仕方のないというか、当然のことだ」


 ごもっともである。


「雨掛くんがどう思っているかまでは俺の理解の範疇を超える。でも、灯火野くんの言いたいこともその気持ちも、完全とまではいかないが少しは分かった……どうした?」


 思わず、岡田さんの顔を凝視していた。


「僕の話、信じるんですか」


 狂気じみていると言っても過言ではないのに。こんな話を受け入れられるとは、微塵も思わなかった。


「疑った方がいいか?」


 岡田さんは笑った。「いえ、その、ただ……」とこちらが口ごもってしまう。


「確かに君は文才もあるし話の構成も上手い。ただ、君は嘘がつけないだろう。

 君の作品に対する思いを聞いたとき、君の影に誰かがいるような印象を受けた。君じゃない人が君の小説を書いているとかそういうのではなくて、君には何か大きく影響しているものがあって、君はその影を素直に背負って、それを心から信じきって作品を生み出している……そんな印象を受けた。

 ……そういえば君自身そう言っていたな。それはまるで、『使命感』だ。

 君が嘘をつけない人間だと思ったのは、そういうものに影響されやすい素直さが君にはあると、俺が勝手に思ったからだ」


 勝手に、のところを偉そうに言うところが岡田さんらしかった。


「しかしどうしたものかな、君は場合によっちゃ雨掛くんを狙った変質者だしな」


 冗談のつもりなのだろうが、まさか『変質者』のレッテルを貼らされることになるなんて。自分の軽率な行動に、今更ながらやりきれない憤慨を覚える。


「場合も何もないです、あの行動は僕から見てもおかしいです」

「客観的な目はもう取り戻してるみたいだな。……なあ、嘘がつけない灯火野くん」


 岡田さんは再び僕の作品を手に取って、さらさらとページをめくった。めくりながら言った。


「君は小手先よりもその真っ直ぐさだ。その誠実さ以上の武器はない。謝るんだ。謝って、全てを話したらどうだ。

 つまらないやり方だと思ったか? でも君の話とこの作品で、君はちゃんと俺を納得させることが出来たろう。無理なんてことはないはずだ」


 グッとお茶を一気飲みして、岡田さんはそれ以上何も言わずに僕の反応を待っている。

 謝る? なんて謝ればいいんだ? 何を言えば伝わるんだ? けれどそれは本当の意味での自問自答じゃなくて、僕の中での迷いだった。とにかく思っていることを口にする。


「何も言わないでいることが最良ではないことは分かります」


 言葉にすると、迷いは不意に収まった。


「……僕、やってみます。このままでいてはいくらなんでも彼女に申し訳ない。彼女を傷つけたままでは、僕の気もすまない」


 言っているうちに、そうすべきなのだろうという確信までもが湧き上がってきたような気がする。


「やってみます」


 もう一度、今度は力を込めてそう言うと、岡田さんがいつもの満足そうな表情を見せてくれた。この笑顔を見ると僕はいつも安心する。





「この前は、本当にごめん……」


 部員全員のメールアドレスを知っている岡田さんの協力を得て、もう一度彼女と話す機会を設けてもらった。そんなことが可能なのだろうかと彼に聞いたら、「女の人と話すのが苦手な俺が頼むんだ、成功してくれないと困る」と彼は答えた。こういうときのために普段は意識して話さないでいるということなのだろうか、僕にはよく分からなかった。

 場所は505講義室。彼女を初めて見かけた場所。僕のことを不審がる彼女の雰囲気は変わらない。目も合わせられない。でも、この前みたいに逃げられたりはしなかった。


「雨掛さんを傷つけてしまって……言葉だけで謝りきれないとは思うけど……」


 僕は彼女を見ていたわけではないのに、君にはもう会えないのに、こんなにも君の存在が僕の中で大きく膨らんでいて……。僕は文学を、君を追いかけずにはいられなくて。

 君がもう、僕の前に現れてくれないなんて、そんなあまりにも悲しい事実を受け入れられなかった。


「……理由があるなら、話せばいいじゃないですか」


 お互いの視線が見当違いな方向をさまよう中、彼女がぽつりと言った。


「『どんなことにだって理由はある。それが言葉になるかならないかなのであって、その言葉にならない部分をすくい取るのが僕の使命』なんでしょう?」


 ……どうして彼女が僕の言葉を。図らずも僕は彼女を直視した。彼女も、ちゃんと僕の方に向き直っていた。


「そんなあなたが自分の言いたいことを言えないで、どうするんですか」


 初めて見せるはずの、フッと全てを許したような彼女の微笑みさえ僕には懐かしかった。全てを目の前の彼女に打ち明けるときだ――僕はそう確信した。目の前の彼女は何も知らない。そして君はもう僕の前に現れることも無い。その二つの事実は十分すぎるほど思い知らされた。なら僕は、懺悔とともに話すしかない。僕に出来ることなんて、そんなもんだ。

 ただ――どこから話そう?


「あれ、読みましたよ」

「あれ?」


 あれこれと考えていたら、彼女に先を越されてしまった。


「ヒビノくんとヒスイさんの話」

「い、いつの間に!」


 当然、僕が渡せたわけがない。とすれば後は一人しかいない。彼女の話によれば、岡田さんが彼女に作品のコピーを手渡したんだそうだ。そういえば相談に行ったあの日から、あの作品は岡田さんに渡したままだった。

 面白かったですよ、と付け加えることを彼女は忘れなかった。お世辞じゃないと、いいんだけど。


「性格は違うけど、自分のことを読んでいるのかと思いました。少し怖かったけど、あれが偶然だとも思えません」


 いつか見たあの嫌悪感が前面に出た彼女の瞳を思い出すといつも吐き気がしそうだったが、今目の前にいる彼女にそんな雰囲気は無かった。今胸の辺りの据わりが悪いと感じるのはきっと、極度に緊張しているからだろう。


「あれが全部実話だって言ったら、どう思う?」


 我ながら、持って回ったような言い方だ。どうして僕はいつも、言い方が回りくどいんだろう。……いや、だからこそ僕は、真っ直ぐな物言いが出来る君に憧れたのかもしれない。

 彼女に聞いておきながら、僕は彼女の返答を待つことはしなかった。


「君が初めて僕の前で歌を詠んだとき、僕は彼女を思い出した。君は彼女に良く似てる……いや、生き写しだ。顔も、声も、詠んだ歌も、君は彼女そのものだった。

 その話は本当だ。そこにいるヒビノは僕で、ヒスイは彼女だ。その話の通り僕は彼女に会って、彼女と話し、彼女と別れた。もう会えないと思った。でもその一年後、彼女はまた僕に姿を見せてくれた。

 彼女は僕の、他の誰よりも会いたい人だったんだ。彼女にはもう会えないと分かっていたのに、君は彼女じゃないのに……」


 それなのに僕は、彼女に無礼を働いた。彼女が僕を嫌ったとしても当然の話だ。

 僕は分かっていた。君に対する僕のこの思いは、恋でもないし愛でもない。そもそも君は僕の心そのものであるのだから、それを追いかけること自体変な話ではあるんだ。そんなこと分かってる。……だけど。

 溢れ出す彼女への思いのやり場を持て余し、その一方でその激しい動揺に心を委ねることさえできなかった。


「僕は馬鹿だ……」


 彼女はそんな僕の様子に同情したようだった。それは、彼女の声色で聞き取れた。


「好きなんじゃない……ただ、会いたかっただけなんでしょう?」


 この二つの言葉のニュアンスが、誰に伝わるだろうか。君なら、三十一音でどう伝えることが出来るだろうか。

 君と同じ姿と声を持つ彼女に会ってしまった僕は、僕が分からなくなっていた。僕は僕を見失い、だからこそ君を追いかけることになってしまったのだろう。


彼がために贈る紫苑に滴落ち黙したままに誰が名を呼ぶか


 彼女の歌は、遊びに走り回って疲れた子を家に呼び戻す母のように、僕の心を僕に収めてくれた。

 しかしながらその歌のせいで、最後の最後まで僕は彼女が鳥遊緋穂でないことに一抹の悔しさを感じていた。

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