今様歌物語
〜忘れられない〜


第一章 冬明けて君に出会いしこの春の風が吹き込み鴇色が散る

 春は別れの季節でありまた、出会いの季節だというのは言い古されたことだ。経験的観測から言って、古人の言葉は大切にすべきである。言葉によって語り継がれていることには必ず意味がある。語り継がれるほどの力がその言葉の内に秘められていて、だから後世までその言葉は残っているのだろう。つまり、「春は別れの季節でありまた、出会いの季節」という言葉は、多くの人の共感やら訓戒やらを含んでいるに違いない。

 しかし僕はこの言葉をあまり使いたいと思えない。たとえどんなに多くの人が共感し、後世にまで残すべきだと思っていたのだとしても。

 ここまで頑固に言い張るのも、理由が無いわけではない。

 僕にやってきた「出会い」と「別れ」、そのどちらも、季節は冬だった――それだけの理由でしかないけれど。





 僕はこの春無事に大学に進学し、その生活のスタートを無難に切っていた。講義の履修の仕方に日々四苦八苦してはいるものの、それは新入生皆同じこと。

 僕が何よりも嬉しかったのは、高校時代よりも自分の時間が多く自由に取れることだった。自由に使える時間、それを僕が何に使おうと思っているかなんてわざわざ言う必要も無いだろう。

 それにもう一つ、僕がこの大学生活に期待していることがあった。


「505講義室ってどこかな……」


 大学構内地図が掲載されているパンフレットに部活・サークル紹介冊子を重ねて両手で持ち、階段と廊下を交互に行き来する。どの階段がどの階層につながっているのかままだ判然としない。地図を見てもなんだか分かったような気がしない。設計者はよほどの変わり者だったと見える。そういえばさっきから僕と似たような(すなわち、パンフレットと紹介冊子を重ねて両手で持っているような)格好をした若者を多く見かける。彼らもきっと、新入生なんだ。僕は少し笑った。

 目的の講義室に着いた。軽やかな引き戸は音も無く開く。入室すると、奥の方に大きな黒板が見えた。この講義室の出入り口は、講義室後方のこの扉しかないようだ。


「お、新入生かな?」


 文字にしてしまえばざっくりとした言葉遣いだったけれど、その口調には彼の知性がにじみ出ていたように感じた。


「は、初めまして」


 中学のときも高校のときも、新入生時代に見る「先輩」は大人びて見えた。そして大学に入ってもそれは変わらなかった。目の前にいる先輩らしき人物は、社会人と名乗られても疑わないほど大人の雰囲気を漂わせていた。彼がかけている縁なし眼鏡がよりいっそうその雰囲気作りに関与しているように見える。


「あはは、別に緊張しなくていい。俺はここのサークル長の岡田哲だ。もし入会希望であるなら、よろしくね」


 なんて紳士的な挨拶なんだろう。あんなに自然に友好的な笑顔になれるなんて、僕には真似出来ない。





「ありがとうございました。では、失礼します」


 僕のそんな形式的な挨拶に、ごひいきにね、と岡田さんは笑ってくれた。彼の言葉に僕は、このサークルへの入部の意思を固くした。次回のサークルの日に自己紹介をする時間を設けるので、それに出席すれば入部を認めてもらえるらしい。

 廊下には相変わらずパンフレットと紹介冊子とを睨みつけている新入生が彷徨っていた。その中に一人、見覚えのある影を見たような気がした。


(緋穂……さん?)


 思って、すぐに思いとどまる。そんな馬鹿な話があるか、と。

 会いまみゆ二度目が終わりであるならば初めの出会いは全ての始まり

 そう詠んだのは、他でもない君だ。この歌の通り君はもう、僕の前に姿を現すことは無い。そんなこと分かりきっている。

 こんな風にすれ違う人を君と見間違えることは、実は結構頻繁にあったしね。





 自己紹介は、僕を悩ませるシチュエーションの一つだ。一人の人間をどうして一分足らずで語ることが出来よう。……これは反語。つまり、そんなことはできない。

 僕は小説を書くのが趣味だ(『趣味』というのは僕自身あまり好まない表現なのだが、それ以上のふさわしい表現を知らないから、『人並みより熱心に取り組んでいる趣味』ということにしてもらおう)。そのせいか、何か話すときは他人よりも凝った表現・言い回しでないと気が済まない。そしてだいたいの場合見事に空回りして失敗する。自分では気の利いた文句だと思っている。しかし伝わらないのだ。

 でも、今回の自己紹介は文学サークルの仲間内での自己紹介だ。思わず期待に胸を膨らませてしまう。期待――僕の言葉はどこまで彼らに伝わって行くのだろう、と思わずにはいられない。


「……です、話を書くのが好きでこのサークルに入りました……」

「……沢山の作品に触れることが出来たらいいと思います……」


 部員は教室に並ぶ机に適当に着いている。黒板の前では岡田さんが司会進行をつとめる。円滑な進行と滑舌だった。

 自己紹介は、新入生から順に発表という形だった。無難な挨拶ですませる学生ばかりだ。まあ、当然ではある。そこで一枚噛みたい、なんて思う奴はそういないだろう。時に、新しい生活が始まったこの季節ならなおさらだ。


「では次、一番前に座ってる君」


 しかし僕はだからこそ、一枚噛みたくなるんだ。

 指名された僕はゆっくり椅子を引いて立ち上がり、気分を落ちつけるために短く息を吐いた。大衆(というほどの人数はいないが)の方を向く。


「初めまして、灯火野智哉と言います。大学に入ったら本格的に小説が書きたいと思ってこのサークルに入りました」


 ここまでなら、普通の挨拶。しかし僕はこんなところで終わらせたりはしない。


「文学を生み出す、ということには様々な理由があると思います。誰かの気持ちを代弁するため、誰かに何かを伝えるため、自分の気持ちをどうにかして形にするため、自分を慰めるため……挙げ始めれば三者三様で、きりがないでしょう。

 どんなことにだって理由はある。それが言葉になるかならないかなのであって、その言葉にならない部分をすくい取るのが僕の使命だと僕は思っています。

 声にもならないような叫びを、あがきを、大勢の人たちに伝えるのが僕の役目だと思います。

 これからも精進します。今後とも、よろしくお願いします」


 拍手が起こるまで、数秒の空白の時間があった。しかし起こった拍手は温かで、長かった。

 全員の自己紹介が一通り終わると、サークルの活動方針やら何やらを岡田さんが話し始めた。縦にも横にも縛られた感じの無い、本当に僕好みのサークルだ。ありがたい。

 前述の通り講義室の扉は後ろに一つあるだけで、それも抵抗をほとんど感じさせないスライドドアだ。何も言わなければ誰が出入りしたかも分からない。先ほどの自己紹介の最中にも、先輩が何人か遅れて入ってきたらしいことは分かっていた。僕は一番前に座っていて、人の話を聞くときはその人の方を向いていないといけないから。

 しかし今話していたのは、黒板の前にいる岡田さんだ。つまり、彼の声がかかるまで、僕は彼女が入室してきたことに気付けなかった。


「さて、一通り説明も終わったし、さっき入ってきた新入生……そうそう君、自己紹介してもらうよ」

「遅れてすみません、道に迷ってしまって」


 僕はその声に聞き覚えがあった。いや、覚えなんてもんじゃない。僕は、この声の主を知っている。


「じゃあ今そこで、簡単にでいいから。大丈夫かな?」


 はい、大丈夫だと思います、とその声が答える。

 僕はおそるおそる振り返る。骨格が似ていれば顔は違っても声が似ることだってある。でも緊張と期待で首がスムーズに振り返ることさえ出来ない。


冬明けて君に出会いしこの春の風が吹き込み鴇色が散る


 彼女のその一言で講義室の空気が一変した。その歌に誘導されるように僕は後ろを振り向いた。その凛とした彼女の声以上のものが僕の全身を打ちのめす。

 ――その姿形はまぎれも無く、あの鳥遊緋穂だった。


「雨掛陽瑞です、よろしくお願いします」


 彼女の自己紹介はそれでおしまいだった。時間にして、二十秒かかったかどうか。


「……今年は興味深い新入生が沢山入ったね」


 岡田さんは満足そうに微笑む。

 他人のそら似? いや、そんなもんじゃない。あれはもはや似ているというレベルを超えていると言わざるを得ない。

 僕の自問自答は続く。それは葛藤だった。

 問題はただ一つ――彼女は君なのか?

 彼女は自分を「アマガケヒスイ」と名乗った。彼女もまた「ヒスイ」なんだ。これを偶然と呼ぶのは全くの表現違いだ。こんなの、偶然なんかで片付けられたらたまったもんじゃない。

 君がまた、僕の前に姿を現してくれたのか?

 そう思うだけで僕は、身体の震えが止まらなかった。





「灯火野くん、今自分の作品持ってたりするかい?」


 今日の集会が終わったらすぐにでも彼女に話しかけようと心に決めていた。しかしそれよりも先に岡田さんが僕を呼び止めた。


「あ、あの僕……」


 彼女が身支度を終えて講義室を出ようとしているのを横目に見る。その様子に岡田さんは気付いたようだが、


「君の挨拶は良かった。雨掛くんもいい色を持ってるが、まずは君の作品が見たいと思ってね」


 女の人に声をかけるのはまだ苦手なんだ、と彼は困ったように笑った。

 彼女はもう行ってしまった。今僕が追いかけようとしたところで、複雑な構内で道に迷うのがオチだろう。


「いいですよ、いくつか持ってます」


 彼女のことは心残りだったけれど、まあ、急ぐことじゃない。彼女はもう同じサークルの仲間なのだから。自信作、と呼べるものは手元にいくつかあった。作品を渡すや否や、岡田さんは何の一言も発さずに読み進め始める。


「ふう……ちょうどいい長さだな」


 作品を読み終えた岡田さんの第一声がそれだった。驚異的な速読スピードだ。


「しっかしまあ、人は見た目によらないもんだな」


 それは聞き捨てならない。


「一言で言えば、君の作品は緻密で丁寧だ。稚拙な作品にありがちな話の『歪み』がほとんどない。……今まで沢山の作品を書いてきたんだろうな」


 その他いくつか指摘された点もあった。構成は丁寧だが、起伏に欠けること。そのせいか、話全体のインパクトが薄れてしまっていること。登場人物がワンテンポな言動しかとれていないということ。全ての指摘が的確に僕の拙いところを突いてくる。……あの早さでそこまで読み込めるのか。すごい技術だ。


「そういえば、男性視点の話ばかりだな。女性視点の話は持ってないのか?」


 さも当然のように岡田さんは上に返した片手の平を僕の方に差し出してきた。


「……無いです」

「実家か? データとかも無いの?」


 僕が一番気にしているところを突かれた。悔しいというか、恥ずかしいというか。


「僕、女性視点の話を書いたことが無いんです」


 意外だ、という風に岡田さんは目を丸くした。ばつの悪い気分になった。


「書こうと思ったことはあります。でも駄目でした」


 リアリティがない、どこかで読んだことのあるような話の展開、感情描写……。僕には向いていないんだな、と肌で感じて諦めた。

 しょげる後輩を前に岡田さんは、


「女心が分からないと、大学生活は難しいぞ?」


 冗談で返してくれた。優しい人だ。


「先輩……一つ言い返してもいいですか?」

「なんだ?」

「人は見た目によらない、なんておっしゃいましたけど。先輩みたいな人が『女の人に声をかけるのが苦手』なんて、僕信じませんよ」


 その直後、僕は痛くないデコピンをくらった。

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