可視光線では見えない
03
 次の月曜日、柚希は学校を休んだ。
 特別編成授業で、お昼前の二つの授業が連続でセンター試験演習に変貌した。チャイムとともにそれが終了すると、まず駒浦が担任に呼ばれて職員室に行ってしまった。すぐ済むと言っていたし、一人で弁当のふたを開けるのも味気ないので、英単語帳を開いて奴の帰りを待つことにする。

(やっぱり、部屋に行くのはちゃんと断って休ませてやれば良かったな……)

 あの時間は忘れがたく幸福だったけれど、やはり日常が失われることほどもの寂しいものはない。

「おい、紺崎」

 反省に沈んでいたとき、聞き覚えのない声が俺の名前を呼んだ。振り返って相手の顔を見たところで、やはり俺の知らない奴だった。

「……誰だっけ」

 正直に告げた俺の言葉に、相手は俺に聞かせるように舌打ちを鳴らした。なんだ、態度悪い奴だな。

「おい、文句あるならまず名乗れよ、気分悪いじゃねえか」

 俺の言葉にまたチッ、と睨み返して奴は名乗った。

「隣のクラスの杉矢すぎやだよ。……それよりお前、どういうつもりだよ」

 昔はよくわざわざそんなことを言いにくる輩もいたが、最近はめっぽうなくなった。俺自身が冷静に対応できるようになったのがその一つ、柚希と一緒にいることが多くなったのがもう一つの理由だと思う。

「話が読めないんだけどな」

 冷静に対応したところ、相手の方が先に突っかかってきた。胸ぐらを掴まれ、クラスメイトの視線が俺の方に集まった。

「お前、四ノ倉さんに手を出したろう。こんな時期に、調子こいてんじゃねえよ」

 大した握力もないくせしてこいつ、何言ってやがんだ。

「もう一回言ってみろよ。俺が柚希に何したってんだ!」

 募ったいらだちを抑えきれず、杉矢の腕を一動作で払ってその胸ぐらを掴み返す。声も大きくなってしまった。

「お、俺見たもんな……」

 唇がわなわなと震えているのが見て取れる。俺は一歩を踏み出して杉矢に詰め寄った。
 ――それが、いけなかったのだろうか。今になって思えば、そんな後悔も生まれる。

「お前が四ノ倉さんの部屋で四ノ倉さんと二人きりだったの、俺は見たんだぞ!」

 小心者の密告の言葉は、演習直後で静まり返った教室の中を甲高く響き渡った。同時に、教室の室温が数度下がったのを感じた。

「なっ……」

 周囲を見渡して俺は思い知らされる。――そこに、俺を守ってくれるものなど何もないのだということを。俺が受けたのは、不信と羨望、そして軽蔑のまなざしの渦だった。

「四ノ倉さんと仲いいからって、最近成績がいいからって、調子こいてんじゃねーよ!」

 杉矢はまだ何か言っている。不快には思ったがその言葉の内容は俺の中をあっさりと素通りしていた。
 俺は、学校という狭い宇宙空間の中で独り彷徨う星屑みたいなやつだった。何の星座も作れない、自分の力では輝くことも出来ない星だったんだ。それは今でも――。
 どうして俺はそのことを忘れていたんだろう?
 俺が教室から隕石のように飛び出すのと同時に、駒浦が鼻歌を歌いながら教室に戻ってきた。

「紺崎! 俺な……」

 何か言おうとするのをやめて、嬉しそうな表情を失った駒浦はうろたえながらも俊敏な動作で俺の腕を掴んだ。振り返った教室の異様な空気に、駒浦でさえ言葉を無くした。

「何があった……? お前らこいつに何しやがった!」

 駒浦の優しさも、正義感さえも今の俺を鋭く切り裂いて傷つける。

「あっ、待てよ!」

 駒浦の腕を振りほどき、宇宙の淵へと逃げるように俺は駆け出す。
 俺は、柚希がいなけりゃ“俺”でいられることさえままならないって言うのか?
 ――惨めだった、あまりにも。



 ――ねえ。黒体放射って知ってる?
 ザザザ、という竹の葉の音に混じって聞こえる声で目が覚めた。起き上がり周りを見渡す。

「ゆずき……」

 名前を呼んでも、そこには俺しかいなかった。
 クラスの奴らが俺のことをどう思っているのか、また、今日のことでどう思うようになったのか。考えるだけでも憂鬱で、ひどく息苦しいことだった。

(調子こいてんじゃねーよ!)

 ふと耳に蘇る声に、思わず耳を塞いだ。しかしそれは耳腔の中で何度も反射して、耳を塞いでしまったら出て行かない。

『ねえ。黒体放射って知ってる?』

 そこから俺の脆い精神を守ってくれるかのように彼女の声が聞こえる。息を吸い込めば、林の青い香りがする。先ほどの罵声も嘘のように薄れていく。
 ――ここに来るだけで俺は、柚希と二人きりになれるんだ――。
 俺は彼女の声に耳を傾けた。



 ねえ。黒体放射って知ってる? 太陽だけじゃなくて、惑星、隕石、要は全ての物質からも赤外線は放射されているの。ほら、岩盤浴ってあるでしょ? 石の上に寝転んでいると、温かくって発汗が促進されるっていう、アレね。あれは、赤外線を放射している岩石を使っているの。つまり地球だって黒体の一つだっていえる。
 黒体っていうのは、その温度に応じた電磁波を放出しているけれど、それと同時にその温度に応じた光を吸収する物質でもあるの。入って、出てという具合ね。吸収する……すなわち、黒体によってある波長の光がそこで失われてしまっているのね。そこだけ、ぽっかりと。
 どんな波長の光が吸収されるかは物質固有に決まっている。その波長に応じた物質がそれぞれ存在している。だから例えば太陽のスペクトルを観測すると、とあるところだけ黒かったりするの。それで、太陽の構成物質が分かってしまう。
 私たちは失われた光を追うことで、眩しく光ってその姿がよく見えない太陽の本質を見ることが出来るの。
 それはまるで――。



 彼女の声は唐突に途切れた。学校のチャイムが、彼女が話し続けることを妨げたのだ。そうだ、俺は昼休みの途中でここに来た。つまり今のは始業のチャイムなのだろう。次の授業は……。

「ああ、センター試験対策だ」

 ……どうでもいい、そんなもの。
 彼女は何を言おうとしたのだったろう? 失われた光の後を追うことが、それによって太陽の本質を見ることが、どうだというのだ。
 思い出せ。思い出せないなら、考えるんだ。



 話の発端は何だったろうか?

『温度って、分子運動の激しさの指標なんだよな? だとすると、空気の存在しない真空空間の宇宙には、気温とか温度という概念は存在しないってことにはならないか?』

 俺の声だ。熱エネルギーのことを復習していたときに湧いた、それはなんとも素朴な疑問だったと言っていい。
 彼女は、温度をエネルギーの話へと展開して話をしてくれた。電磁波のエネルギーを絶対温度のケルビンで表すというのは、俺の中でまた新しい知識になった。そして、媒質なくして電磁波が宇宙空間を渡り歩くのは、電場と磁場が絶えず変化しながら生じているからだと彼女は言った。
 そして話は、電磁波の持つエネルギーの「源」へと掘り下がっていく。……そう、『宇宙背景輻射』だ。
 宇宙を創造したビッグバンのエネルギーが今も宇宙の淵を泳いでいるのだという。高エネルギーの光が超低温になって存在していることを知った。
 記憶は次々と、それはもう鮮やかに蘇る。彼女の笑顔、仕草とともに。
 次に思い出したのは俺の一言だった。『光と電磁波の違いが、分からないんだ』。柚希はそれにも即座に答えてくれた。それは非常に簡単で、

『両者に本質的な違いはないよ』

 それが答えだった。彼女は付け足した。

『強いていえば、可視光線を指すときに「光」と、目に見えないその他の波長帯も含めて全体的に言いたいときに「電磁波」ということの方が多いかな。紛らわしかったね』

 そう言いながら照れたように笑う彼女の顔――。

「……!」

 頭の中を電気が走った。思い出したのだ、さっきの彼女の言葉の続きを。それはまるで――。

「やっぱりここにいたか」

 青い世界に現れたのは、息を切らした駒浦の姿だった。



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