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「ミスイ……?」
 黒い影が、上擦った声で初めて反応した。
「私ハ、私ハ私ハ私ハ私ハ私ハ私ハ私ハ……」
 黒い影は切れ切れにそういうと、突然フェンスに向かってものすごい速度で移動しだした。そのまま鉄線もフェンスも、網戸を破くみたいに簡単にぶっ壊して進む。走っているのか滑っているのかわからない、音が無い。フェンスが破れる暴力的な音だけ。鉄線が引きちぎられる音だけ。闇に溶けた影は微かな落下音を立てて、12階立ての屋上から、ふっと消えた。落ちていった。
 下にいる。落ちたなら地上にいる。あたしは振り向いて、階段を一気に駆け降りた。怖いとか逃げたいとかは思わなかった。あいつに何が起きている? ―― そう、この時、確かに階段を下りたんだ、あたしは。
「私ハ子供子供コドモこどモ子供コども子供コドモこドモ子供子供こども子供コドモ子供コどモ子供子供子供こども子供コドモ子供コどモ子供コども子供コドモこドモ子供子供子どもこどもコドモコドモコドモコドモコドモゥォうウォウううオオぐごおおおおおオオオ」
 影が落ちた場所は嗚咽と轟音が混ざった声が響き渡るからすぐにわかった。空気が振動する。歪な黒い塊はアスファルトの上にいた。影のようだと思っていたそれは小さなモニュメントのように膨らんでいて、まるで、公園にあるグローブジャングルみたいだ。なんだこれ。最初は、ヒトじゃ、なかったか?
 近付くと血のようなタールのようなどろりとした液体が周囲に広がっているのがわかる。酷い腐敗臭が漂う。鼻と口に手を翳しているだけでも吐き気がする。そして、団地は静かだ。恐ろしいくらい静かだ。時々団欒の声が聞こえる。黒い塊、臭い血液、異常な光景を囲むのは、どこにでもいる家族たちの、日常的な笑い声だった。
 近づいてみると、その塊は女性だとわかった。
 いや……女性? 確信より勘に近い。
 彼女と呼んでいいのかさえわからない。
 鱗状の皮膚が黒光する。腕や足らしきものがあらぬ方向へ折れ広がっている、糸が切れた傴僂のように。背中からは恐竜のような骨板が何本も生えている。乱れた栗色のショートカットは黒い液体を垂れ流しながら空を見上げている。はっきりとは見えないけれど恍惚とした笑みを浮かべている気がした。焦点の合わない斜視の瞳孔が開いたり閉じたりをゆっくりと繰り返す。裂けた口元から伝う唾液は薄赤く色づいており、突然首がコロンと落ちる。
「ママママママママママママママママママママママママママ……」
 声はどんどん力を失くしていった。金魚のように口をパクパクさせて、呻いている時間が多くなってきた。そしてさも愛おしそうに、転がっていった自分の首に両手を伸ばして胸に抱いた。それから砂山のようにぼろぼろと崩れはじめ、劣化して、散らばったかと思うとそのまま消えてしまった。
 あたしは目の前で起こったことが非現実的過ぎて、何も言えないまま、しばらくそこに突っ立っていた。


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