4.研修旅行

19

「そういえば、さっき永田と話してたんだ。あいつ……」

 話題転換のつもりで口が滑ってしまった。いいかけて、口を噤む僕を左良井さんはつまらなそうに見た。

「彼は結局どこの人なのかしら?」

「あ……分かってた?」

「気づいてなかったの、越路くんくらいじゃない?」

 ……さようですか。

「そっか……そういうの疎くて」

 髪を切ったとか染めたとか靴が新しいとか見たことない服とか、本当に自分から気づいた試しがない。じゃあ僕は何で人と人の違いを判断しているんだろうと、たまに疑問に思うことがある。

「見た目が違うと、そんなに扱いが変わるものなのかな」

「環境によりけりでしょうけどね……彼は強いわね」

 自分の話のあと清々しく笑う彼の表情が記憶に新しい。彼はいつも爽やかに笑う。

「自分が経験した辛いことを話したあとにあんなに気持ち良く笑える自信、僕にはないよ」

 しんと静まり返ったロビーで話すと、言葉の一つ一つが何か特別な意味を持ってしまうような気がした。

「この間、聞いたこと覚えてる?」

「不幸と幸せの比率、だっけ」

 小さく顎を引いて、イエスと彼女は頷いた。

「例えば彼みたいに日本人離れした見た目を、私たちは安易に羨ましいとか美しいと思うかもしれない。でも、彼はそれが何よりも苦痛だったんでしょう」

 そうだ。それが僕の言うところの単一でない幸せの形。左良井さんはしばらく語り続ける。

「例えば地球が奇跡の星だなんて、私は到底思えないの。だってもし天体が今の位置関係に無かったとしたら、地球は生命の無い星だった。宇宙を研究して『これは奇跡だ』と思える生命体さえなかったのよ? じゃあこの奇跡は何と比較された奇跡なのかしら。
 自分たちがこの世に生を受けていることを奇跡と呼ぶのなら……それはあまりに傲慢な考え方じゃないかと思うの」

 全身に響く彼女の静かな声。そこに空気が存在することを、意識させられるようだった。

「例えば転落死するには、高いところに上らないといけない。高くて高くて見晴らしがいい景色ほど、落ちた時の衝撃は身を滅ぼすわ」

 ロビーの窓にはお洒落な格子がはめられていて、そこから床に差し込む月の光は細く黒い線の影で等分されている。

「太陽なんてもう、夜の前兆としか思えない。幸せなんて……」

 彼女はそこで言葉を止めた。もう語るのは苦しいと言わんばかりに、それ以上を語ることはなかった。

「それは本当だよ、左良井さんは正しい」

 ずっと黙っていた僕が口を開いたので、彼女はハッとして僕に視線をやった。

「でも、正しいことはそれだけじゃないよ。夜が太陽の前兆だってことも、本当だ」

 夢なら覚めないでくれと願う時、その瞬間人は昼の太陽に絶望しているというのは、言いすぎだろうか?

「昼の空を見上げても、地球の半分は夜なんだ。それが僕たちが生きている世界」

 喧騒が落ち着いて、がやがやとみんなが部屋の方に戻る気配がし始めた。

「そうと分かっていても、それでも夜が辛いなら……夢の中で昼に生きようよ」

 悪夢が辛いんじゃない、現実が辛いんでもない。

「夢を見よう。辛いことは全部夜のせいにしてしまおう。嘘より夢の方が、夢があるよ」

 今生きている現実が幸せだということが、何よりも、怖いんだ。

「全部全部、嘘だったらいいんでしょ。僕もその方が、都合がいいんだ」

 うつむいて一人笑う僕を、左良井さんがどんな目で見ていたか僕にはわからなかった。


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