160 南雲 -2
薫の養育を委ねられた人間は彼の出自を知らなかった。政治的意図で他藩の子息を預かるのは、ままある事だ。
子供らしい愛嬌もない薫に大して興味は湧かず、家人に世話を任せきりだった。
与えられた部屋で与えられた書物を読み、運ばれてきた食事を一人黙々と口に運ぶ日々。
薫は誰にも必要とされていないという劣等感から、ほとんど口をきかなくなった。
ここ以外に自分の居場所はない。でもここも、自分の居場所じゃない。
少年から青年へと成長する過程で誰からも自分を肯定されず、在って無きがごとき存在として育った。
例えば、殴られれば痛い。罵られれば傷つく。抱き締められれば安心し、褒められれば嬉しい。
体と心は他者からの干渉によって反応し、学習してゆくものだ。
だが薫にはそういった物が与えられなかった。彼は笑い方も怒り方も――泣き方すらもうよく思い出せなくなっていた。
やがて薫の養育者は、仕事が終わるとよく“勉強会”なるものに参加し始めた。
卵から出た雛が最初に見たものを親と思い込むように、初めて知った攘夷論という思想に心酔し、のめりこんだ。
聞きかじった受け売りの言葉に高揚しては、酔って気炎を吐く。
今こそ自分達が動く時だ。そう信じ……藩内での弾圧が強くなると薫を連れて脱藩した。
薫を連れ出した事に深い意味があった訳ではない。命ずるままに動く人形のような彼は、手駒として留め置くのに丁度よかったのだ。
また、供を連れている方が箔が付くという俗な考えも片隅にあった。
向かった先は京の長州藩邸。そこには多くの勤王派が潜伏していた。
歓迎とともに迎え入れられ、自分が単なる脱藩者ではなく憂国の士なのだと認められたようで、ますます倒幕論に自信を深めた。
だが京にあっても攘夷派に対する弾圧は元いた土佐藩同様にあった。いや、それ以上かもしれない。
同志が捕縛されたとの報が入る度に怒りと恨みが募り、それらが仲間の結束をより強くしてゆく。
そんな中、男が薫に命じたのは――――攘夷派の取締りで頭角を現し始めた“新選組”の偵察だった。
京の町は人が多い。物売り、旅客、商人に武士と様々な人が往来している。沢山沢山、人間ばかりがいる。
薫はブラブラと物見をしているような振りをして、壬生狼達がやってくるだろう巡察経路を歩いていた。
彼らが来ればひと目でわかる。すぐに通りの空気が変わるのだ。
誰もが息を潜めて通り過ぎるまでやり過ごし、一団の後姿をああ鬱陶しいとでも言いたげに軽く睨む。
それらの目つきには覚えがあった。幼い自分を見下ろしていた養母の視線。
視界の中に存在するのが心底疎ましいという、あの冷たい目と同じだ。
「いやぁ〜、こっちに来はったわ。目ぇが合ったらどないしよ」
「あほぅ、聞こえたらどないすんねん。えらい目に遭うで」
隣りにいた夫婦の会話で振り返ると、案の定いかめしい顔をした一群が通りの真ん中をずんずんとこちらへ向かっていた。
だが、薫は彼らを注視するより一瞬早く、ある気配に気付いた。
っ!! 鬼が……鬼がいる!?
ドクンと心脈が跳ねた。集団の中から発せられてるその気配に、意識を集中する。
居た。鬼が居た。しかも女だ。あれは……あれは……誰だ。
お前は誰だ。なぜそこにいる。人間の中に。
俺と同じく囚われているのか? だったらなぜ――笑っている?
黒いものがジワリと湧いた。気付けば唇を噛み締めていた。
何に苛立ったのか、自分でもよく分からない。だだ無性に嫌悪を感じた。
日差しの下で人間と楽しそうに談笑している女鬼は、庇の陰で目を伏せた男鬼の前を一瞬で通り過ぎて行った。
だが何か感じたのだろう。
困惑したような顔で一度振り返って足を止め、軽く眉を寄せた後、仲間に置いていかれないようまた早足で歩き出した。
その姿が雑踏に見えなくなるまで、薫はジッと彼女を見ていた。
さらに半年ほど経った頃。薫は男に連れられ、ある屋敷に来た。
隠れ家らしいその屋敷には使用人が一人いるきりで、シンと静まり返っていた。
使用人は金さえ弾めば黙って口を閉じている、といった手合いなのだろう。
上がりこんできた薫達の草履を揃えると、すぐ奥へ引っ込んだ。
男が廊下の突き当たりにある木戸を引き開けると、地下へ続く階段があった。
芋倉か、と薫が思っていると男は振り向いて嫌な笑みを浮かべた。
「牢だ。こういう物を見ておくのも後学のためには悪くない」
とってつけたような理屈だ。どうせ自分は本当は凄い人間なんだと思わせたいだけだろ、と心の中でごちた。
黙って男の後に続き階段を下りる。
一段足を下ろすごとに、牢に一歩近づくたびに、今まで感じた事のない歪んだ鬼の気が皮膚を包み込んだ。
何なんだ、これは。幽閉されているのは鬼なのか? ……気持ちが悪い。こんなに気味の悪い気配は初めてだ。
薫は鳥肌の立った腕をさすって眉を顰めた。
重い南京錠をガチャリと開き牢の中に入ると、痩せさらばえた女が何か小さく口元を動かしながら隅に座り込んでいた。
「気狂いを見るのは初めてだろ。あと二、三人に試さなきゃ確かな事は言えないが、これには頭をおかしくする効能があるらしい」
男は懐から赤い液体の入った瓶を取り出して薫に見せた。それは陰湿な禍々しさを漂わせ薄暗がりの中揺らめいていた。
「血ですか」
「さぁな、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。何でも南蛮渡来の毒薬だそうだ」
あの女に飲ませたらもんどりうって卒倒した後狂いやがった。
そう言った男の顔には同情も罪悪感もない。
薫は“逃げようとすればお前もああなる”と暗に言われたような気がして、奥歯をグッと噛んだ。
ふいに声がした。
女の乾いた唇から掠れた声が小さく漏れている。唄のようだった。
……子守唄だ
はっと顔を上げまじまじと女の顔を凝視する。震える声は聞いた事のある調べを奏でていた。
記憶がドッと甦る。小さな薫は廊下から中庭挟んで向こう側の廊下を見つめている。
お母様がいた。優しく微笑んで目を細め、小さく体を揺らしている。
腕の中にはようやく授かった愛おしい実の息子を抱いている。
そんなにも満たされた顔の母を見た事がなかった薫は、嬉しくなった。
でも、何故か足が動かない。走って駆け寄りたいのに近づけない。
邪魔をしてはいけないと感じた。入り込めない壁があった。
優しい声で心底愛おしそうに唄う子守唄の調べを、立ち尽くしたまま聴き続けた。
養母は赤ん坊が寝たのか、しばらくすると薫に気付かぬまま部屋へ入り襖を閉めた。
その唄と同じ調べを牢の女は響かせていた。カッと血が昇る。
「や……めろ。やめろっっ! 今すぐ歌うのをやめろっっ!!」
我に返ると叫んでいた。横にいる男が驚いて自分を見ていたが、止まらなかった。
蓋をしていた感情が溢れ出す。
誰も俺を見ようとしない。誰も俺を認めない。
襖を閉めた養母と女が重なる。今まで考えないようにしてきた事が次々に浮かんだ。
自分を南雲家へ押し付けた実親達が憎かった。人間へ人質に差し出した養父母が憎かった。
己を締め出した鬼の里が、幽閉した人間達が、関わった何もかもが――
この世から消えればいい、と思った。
薫は目の前にいる女性――雪村八千代――が実の叔母であるとも知らず、蔑みと憎しみを込めて睨みつけた。
この日を境に薫の中で何かが変わった。
ひたりと闇が侵食しはじめた。
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