159 南雲

慶応四年 閏四月五日、会津藩主より正式な命が下り。翌六日、斎藤の率いる隊は千恵達を残し、白河へと出立した。

「月宮、行くぞ」

いつまでも見送る背中に土方が声を掛けると、千恵は我に返ったようにハッと振り向き、短く返事して言葉に従った。


千鶴もその横に並び、斎藤と別れた彼女の心を思って静かに寄り添った。見送る辛さと待つ苦しみは良く知っている。

土方さんが隊を離れて江戸に向かい無事会津で合流するまで、私の支えは千恵ちゃんだった。

忙しい手伝いの合間に私をお寺へ連れて行き、一緒に彼の無事を祈ってお参りしてくれた。

参拝したお寺も両の指で足りない数になった頃、私が沈みがちになっていると、必ず会えるからと一生懸命気持ちを引っ張り上げてくれた。

もしも……ううん、そんな事考えちゃいけない。きっと斎藤さん達は白河城をしっかり守り抜いて、私達をお城に迎えてくれるはず。

それまで、私が千恵ちゃんを支えなきゃ。

…………南雲さんからも、守らなきゃ。

自分と瓜二つの顔をした青年が脳裏に浮かんだ。

生き別れの兄。突然過ぎてその手を払ってしまったけれど、もし私があの時頷いていれば、千恵ちゃんが変若水を飲まされる事もなかった。

南雲さんは――兄はどんな人生を歩んできたんだろう。ずっと私を探していたの?

どうして変若水を持ってたんだろう。今……どこにいるんだろう。


 誰も頼れない絶望と笑い方を忘れるほどの空しさを知れば……お前は俺の手を取るしかなくなるだろう?


そう言った彼の酷薄な笑みと暗い眼光を思い出し、体がゾクリと震えた。

――自分達を追っているのは新政府軍だけじゃないかもしれない。

千鶴は見えないものから千恵を庇うように並び歩き、時折彼女の背中にそっと手を添えた。



千鶴がその存在を不安に思っていた男――南雲薫は、すんでの所で天霧と鋼道の探索を逃れ、江戸に戻っていた。

自分の撒いた種がどんな醜い花を咲かせているか、見物でもしようと思いたったのだ。

傍らには“はぐれ鬼”となった自分に付いて来た、馬鹿な侍従が一人いるだけだ。

まさか八千代が己の助命嘆願を乞うた事など知るよしもなく。理に逆らった自分ははぐれ鬼になったのだと思い、心の赴くままに行動していた。


その心は、救われることのない孤独に色を失くしていた。



※※※



――もう二十年以上も前の事。

一つ目の産声は温かい笑顔で迎えられ、二つ目の産声には悲痛な表情が寄せられた。

御可哀相に…… 折角授かったのに…… 神様も罪な事を……

遠巻きに小声で囁かれる言葉の数々。ようやく母となった女性は、戸惑いと不安を隠せなかった。かわいそう? どうして? と。

雪村千鶴と雪村薫――後の南雲薫――は、双子としてこの世に生まれた。

事を知った侍従は頭領の所へ急ぎ、数日の論議の末、使いの者が里から走り出た。

養育を託す手紙と、産着に包まれた赤子と共に。

「赤ちゃんをっ……薫を返してっ! いやぁぁっ」

我が子を奪われ虚しく空を切った母親の手が、激しく扉を叩き。

産室から叫ぶ絶望の声は、いつまでも人々の耳に残った。



子宝に恵まれなかった南雲家で、赤子は温かく迎えられた。最初の二年は。

三年目に薫の義母が懐妊し、正式な嫡男が誕生したのだ。頭領夫妻は血を分けた我が子を、目に入れても痛くない程可愛がった。

まだ三つの薫は母の気を引こうと物を壊したり悪戯を重ね、返って“厄介な事ばかりする子”と次第に疎まれるようになった。

「またそんな事をして! 家中の物を壊してしまうつもり?」

「あっちにお行きなさい! この子に風邪が移ってしまうじゃないの」

一日で一番多く言う言葉は、「おかあさま」から「ごめんなさい」に変わった。

それでもどうにかして自分に感心を持って欲しいと、

「おかあさま、ぼくもだっこして」

勇気を出して足に抱きついた四歳のある日。返ってきた言葉は思いがけないものだった。


「おかあさま おかあさまって、いい加減に自分の立場をわきまえなさい。あなたは私の子ではないのだから」

「う……そ。うそだっ!」

「人を嘘つき呼ばわりするなんて、まぁなんと性根の悪い。そんなだから親に捨てられるのです。恩知らずも甚だしい」

義母がようやく授かった実子は病がちで、その事に始終悩まされていた。

すくすくと健康に育つ薫と我が子を見比べる、家臣たちの目。もっと丈夫に育てろという夫の叱責。

色々な鬱憤を幼い里子で晴らしたやましさから、恥ずかしくなって顔を背けた事など、四つの薫に分かるはずもない。

背中を向けて去って行く人に「おかあさま」ともう一度声を掛けようとして……出来なかった。



袴着のお祝いの日は、久し振りに会える義父が腰紐を結んでくれると聞いていたので、期待に胸を膨らませていた。

だが、義父は見知らぬ男性を連れて部屋へ入って来た。

「これが長男の薫です。薫、ご挨拶なさい」

長男として紹介された誇らしさから、元気良く挨拶した。お父上は認めてくれているのだと嬉しかった。

「ククッ、それほどまでに里が大事か。こうもあっさりと我が子を差し出すとは……いやはや、鬼には親の情もないと見える」

「どう受け取ろうとそちらの勝手だが……里の安全と薫の命は保証してもらえるのだな?」

「そういう事だ」

土佐にとって鬼の里は有事に利用できる。嫡男を質に取ることで里の恭順を確認し、藩に従わせる事が狙いだった。

一方南雲の義父は、雪村家と月宮家が滅びたという報せを先日受け取っていた。

……里の為だ、薫、許せ。それに、藩邸で育つ方がもしかしたら良い将来が開けるかもしれん。

今、鬼の社会では二つの大きな里が焼失するという未曾有の事態に、混乱を極めている。

遺児である薫の存在が知れれば、人間に報復したがっている好戦的な派閥が、戦の大義に薫を担ぎ出す可能性も大いにあった。

里の安寧を守る頭領という立場から、それだけはどうしても避けたかった。

様々な政治の思惑が絡み合い、真新しい袴の腰紐を義父に結んでもらった薫は、そのまま男の手に渡された。

里の門を出る時。赤子の頃から薫を見てきた下男は、大人の事情に巻き込まれた彼を思い、門柱をガンッと殴って顔を歪めた。



「どこへ向かうのですか?」

「土佐藩邸だ。……ふん、何も分かっておらぬようだな。親に捨てられ気付きもせぬとは、鬼というのは人間より鈍いのかもしれん」

捨て……られた? 捨てられた……そうか、捨てられたのか。……また。

薫の顔から表情が消えた。

空を見つめ大きく開いたままの目から、音もなく静かに涙が零れた。

声を立てることもなく拭いもせず流れた涙は、義父が結んでくれた腰紐の上にポタリポタリと落ちて、紐を濃い色に変えた。


頬の雫が乾いた時。

薫の心の中でこれから育っていくはずだった大切な何かが、底のない闇へと沈んでいった。




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