161 南雲 -3

生きる動力を怒りと憎しみに定めた日から、薫は自分の立場をこれまでとは異なった視点で見るようになった。

このまま攘夷派に与している男達と居れば、共倒れになる可能性が高い。

明らかな衰えは見えても幕府の力はいまだ健在で、転覆が叶うようには到底思われない。

それに……これは以前から分かっていた事だが、人間の趨勢はころころと変わり、固く見えた絆も容易に綻ぶ。

いつ誰にどのような形で、自分がまた下げ渡されるかも知れなかった。

……もう、好きにはさせない。誰にも。



機会は思ったより早く訪れた。

禁門の変の後、一旦は京を離れ鳴りを潜めてた男が、隠れ家へ軍資金を取りに戻るから付いて来い、と言い出したのだ。

人間からも鬼からも離れる為には金子が要ると思っていた薫は、これを好機と見た。

「ここで人と会う約束をしている。お前は奥で待っていろ」

久し振りに訪れた屋敷は相変わらず重い静けさを纏い、地下からはあの得体の知れぬ狂気が戸を越えて滲み出ていた。

……あの女、まだ生きてるのか。

漏れ出て伝わる歪んだ気配は前よりも一層濃く、例えようのない臭気を帯びている。

人間より強い生命力を持つが故に容易には死ねず、会えぬ子を想い今も唄を歌っているのだろうか。

胸の裡に激しい嫌悪が突き上げてきた。囚われたまま放置され、骸となる寸前の女に、一瞬自分を重ね合わせてしまったのだ。

だが、牢の女と薫には決定的な違いがある。

女には心すら失っても忘れ得ぬ想いがあり、それを育んだ幸福な思い出がある。薫にはそれがない。

最も哀れむべき境遇の者ですら、自分よりは幸福を味わっているのだと瞬時に感じ取り、それが嫌悪感となって表に出たのだった。

薫は苛立ちまぎれに地下牢への戸を睨みつけると、奥の座敷に一人上がった。


一刻近くはそのままで居ただろうか。突然静寂を切り裂く絶叫が響き渡り、驚いて部屋の襖裏に身を寄せた。

襲撃、捕縛、それとも…会う約束の人物を殺しでもしたのか?

油断せずほんの少し襖を開けて伺うと、剃髪の初老の男が牢にいたあの女を背負い、地下牢に続く戸から飛び出してきた。

足袋のまま庭へ跳ね降り、背負った女の重さにもとらわれず、垣根の裏木戸を押し壊すような勢いで駆け抜ける。

目を見開いたままその姿を見送った彼は、襖を開けて牢への階段を駆け下りた。

そこには、ついさっきまで己を下僕のように扱っていた男が横たわっていた。

くっ、と喉が引き絞られ。胸が拍を打つ。

「クックックッ、……ははは、あはははははっ!」

薫は胸を細かく揺すって喉を仰け反らせ、その口からは堪えていたものを吐き出すような高い笑い声が響き渡った。

死んでる! 死にやがった! まさか俺が殺す前に誰かがやってくれるなんて、思いもしなかったよ。

本当にまったく、こんなにも愉快な気持ちは久し振りだ。笑いが納まらないや。くくっ。

あまりに可笑しくて滲んだ涙を拭い、断命した男の顔に片足を置いて軽く踏みつけてみた。

足裏に柔らかさと固さの重なる生き物独特の感触が伝わり、そこへ力を加えるとゴキッと骨の折れる音が鳴った。

何も感じなかった。ただ、男の顔から離した足裏を、汚れでも拭うように床へ数回擦りつけた。


しゃがんで無造作に遺体の懐へ手を突っ込むと、ずっしりと重量のある布袋があった。

開けてみれば予想通り黄金に鈍く光る粒が詰まっており、そのまま己の懐に仕舞いこむ。

もうここに用はない。ツイと立ち上がって牢を出ようとし、薫はそこで何かを蹴った。

板を転がってすぐに動きを止めたそれは、赤い液体の入った小瓶だった。

手を伸ばし拾う。液体から、ザワリと身の内の何かを撫で上げるような重く深い怨嗟が瓶越しに漂ってくる。

それは薫にとって身近で、よく知った感覚だった。嫌悪感よりも仲間を見つけたような心安さを感じた。

 ……ヲ メッセヨ ワレラトトモニ 

声がした。実際には音のない部屋で、小瓶から声を聞いたような気がした。

「俺に使って欲しいのか。お前を使えば何が出来る?」

瓶に問い掛けるように呟き、赤暗い液体を軽く振ると――。

それは新しい持ち主を歓待するように楽しげに揺れた。


こうして変若水は、薫の懐に舞い込んだのだった。

まるでそうなる運命であったかのように。




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