121 告白 -2
まるで空から天女が降りてきたようだった。忘れもしない愛しい気配。
ドサリと畳に落ちたその女性に駆け寄り腕に抱くと、やはりそれは、何年も夢に焦がれた八千代だった。
「大丈夫です、この女性は……知り合いです。何か御仏の力が働いたのでしょう」
刀に手をかけた同室の男を制し、自身も驚きながら、そう伝えた。そうとしか言いようがなかった。
鋼道は宿の者に布団を頼んで、そこに八千代を横たえる。在りし日の面影のまま、美しく年を重ねた八千代がそこにいた。
「八千代殿……よく生きてっっ!」
傍らに座った綱道はその手を握り締め、神仏に心から感謝して再会の喜びに涙した。
見送った夜は身が裂けたような辛さだった。子が生まれたと聞いた時は、その幸せを喜びながらも、少し酒に飲まれた。
どんな力が働いたかは知らないが。今目の前で起きた出来事は、奇跡以外の何物でもなかった。
やがて目が覚めた八千代は、少し老け込んだ綱道の膝を借りて泣いた。
綱道にとってはもう十年以上前の話。けれど、八千代にとっては、起きたばかりの悲劇。
受け止めるには余りに大き過ぎて、まだ生々しく心を苛んでいた。
けれど、思ってもみなかった再会は、八千代の心に温かさを吹き込んでくれた。
綱道の変わらない優しい瞳には、昔と同じように慈しむ気持ちが溢れていて、八千代は我知らず頬を緩めた。
「良く分からんが、どうやら奇跡の再会のようだ。ここは一つ、俺の奢りで酒宴といこうじゃねぇか。
あんた医者だってな? 酒は百薬の長だろう? パァ〜っといこうぜ! 陽気によ!」
傍らで二人を見ていた男がそう言ってくれた事に、綱道は少なからず驚いていた。
……風体が悪いなどと、人を一見して判断してはいけないな。案外優しい人だったようだ。
「奢りなんてそんな気遣いは結構ですが……。よければ外で一緒に食事でもしましょうか」
男の申し出を嬉しく思い、再会の喜びで弾んだ気持ちもあって、三人で連れ立って男の贔屓の店に向かった。
料理は美味しく、八千代にも少し笑顔が戻って、それが何より嬉しく、綱道はいつもより多めに飲んだ。
やがて強い眠気に襲われ、机に伏して目を瞑った。夢のような夜だった。
だが、目が覚めた時。現実の方は悪夢へと変わっていた。
肌寒さに目を開けた綱道は、男と八千代がいない事に気付いて驚いた。
店主に聞くと、二人で出て行ったと言う。そんな馬鹿な話があるわけない。
「八千代殿! 八千代殿っっ!!」
転がるように店を出た綱道は、通りで声を限りにその名を叫んで見回したが。
返ってきたのは行き交う人々の訝しげな視線だけだった。一気に不安が膨れ上がり、体が震えた。
……! もしかしてっ!?
懐に手を突っ込み、ある物を探したが……そこに確かにあった小さな瓶が消えていた。
男は綱道の酒に一服盛り、八千代と変若水の小瓶を盗んだのだ。きっと八千代は偶然巻き込まれたのだろう。
狙いはただ一つ。幕府が蘭方医に託したと伝え聞く、異国の妙薬だった。
当時の事を思い出したのだろう。八千代の瞳は潤み、苦しげに眉を寄せていた。
けれど、言わなければ。たとえ綱道さんが文を残していたとしても、彼は決して私の咎を書かなかっただろうから。
八千代は目を伏せてしばらく逡巡した後、ポツリポツリと話し出した。
「綱道さんが眠った後、男は豹変して懐から出した短刀で脅し、彼の懐から小瓶を盗みました。
私だけなら逃げられましたが、もしそのせいで綱道さんに危害が加えられたらと思うと、出来なかった。
……私にはあの瞬間、彼だけが唯一の救いでしたから。それに、すぐ逃げ出せると思ったんです。
ふっ、今考えると甘い了見ですよね。まさか……三年も牢に囚われるとは、思ってもいなかったんです」
当時を思い出すと涙が零れる。再会の喜びは一瞬で終わり、長い長い監禁生活が始まった。
同室だった男は過激な浪士集団の下っ端だった。
最初は薬だけ持ち去るつもりだったが、眠っている綱道と違い一部始終を見ていた女を置いていくのは、危険だと判断したらしい。
それだけの事で、八千代は攫われた。
薬の使い道は分からない。蘭方医は置いてきた。代わりに何も知らない女を攫ってきた、とあって男の上司は激怒した。
だが八千代の身なりからかなり高い身分と推察した上司は、何かに使えるかも、と欲をだした。
八千代は過激派浪士の集う屋敷の地下に、その身を幽閉された。
どこか場所も分からない屋敷に閉じ込められ、いつ殺されるかと怯える日々。
いや、殺されるならまだいい。もしこの身が鬼と知れたら。もしこの血を利用されたら。
恐ろしい想像が心を蝕む。二畳ほどの小さい牢は意外に頑丈で、八千代は少しずつ、逃げる気概を失っていった。
そのうち何か政変があったらしく、住人が入れ替わった。天子様を誘拐して町を焼く計画が、頓挫したらしい。
仲間のほとんどが京を追われた、という話を牢の番人が話していたが、八千代にはどうでもよかった。
ここで朽ちるのも、いいかもしれない。生き残ったところで何が待っているというんだろう。何もない。
……綱道様はまだ探して下さっているかしら?まさかね。きっと……もう諦めてる。
何か大事な物を盗んできたらしいが、どんどん屋敷に住む者が入れ替わり、それは放置されたままだった。
そして八千代も地下牢に入れられたまま、その身を捨て置かれていた。
うだるような暑さと凍るような寒さだけで、季節の変化を知った。
無口な牢の女に話しかける者は誰もなくなり、薄汚れた衣服に痩せた体を包み……八千代は空っぽになった。
やがて心にも体にも、何の感覚もなくなったある日。牢の扉が開かれた。
一方、当然だが綱道は諦めてなどいなかった。身を潜めながらも八千代を探し続けていた。
根気強く、用心深く。名を変えて秘かに動いていた。そしてついに、ある組織がねぐらに使っている屋敷に、
変わった子守唄を歌う女が囚われたまま放置されている、という噂話を耳にした。
「数珠を握り締めて鬼の子守唄を歌うらしいよ。呪いじゃなきゃいいけどね」
数珠、鬼の子守唄。それを聞いた綱道は即座に潜入を決め、機会を待って一派との接触を図った。
まさかその密会の現場で、千鶴と再会するとは夢にも思わなかったが。
美しく成長した愛娘とほんの一瞬だけ言葉を交わして別れた彼は、そのまま上手く組織に入り込んだ。
陰鬱な目をした上級武士は、倒幕派だと名乗る蘭方医に、赤い液体の入った瓶を見せた。
「これが何か調べて欲しい。幕府の密命に関わる妙薬と聞くが、詳細が定かでない。
当時ここに居た者は皆もうあの世だからな。牢の女に飲ませたら気が触れた。阿片の類かもしれん」
────三年の歳月をかけ、再び変若水は綱道の手に戻った。悲しく辛い現実と共に。
地下牢の扉が開き、変わり果てた様子に叫びだしたくなったが、それは間違いなく捜し続けた八千代だった。
八千代は数珠を握り締め、小さな声で唄を歌っていた。懐かしい、鬼の里の子守唄。
泣く子 鬼の子 かわいい子 泣いた この子のかかさまの 髪は黄金(こがね)か銅(あかがね)か
泣くな 鬼の子 かわいい子 音を 立てれば人が来る 果ては異国に売らりょうぞ
よい子 鬼の子 ねんねこしゃん 寝た子 かわいや ねんねこしゃん
懐かしいその唄は、きっと息子を負ぶいながら歌ったのだろう。八千代の体は唄に合わせユラユラと揺れていた。
自分さえ油断しなければ。もしあの時懐に、変若水を持っていなければ。
そして、八千代が降ってくるのが、あの日でさえなければ……。
償いのようのない己の罪に、体中の血が凍りついたようだった。
目を見張り震える綱道をチラッと見た上級武士は、気の弱い奴め、と内心馬鹿にしながら説明した。
「元々大人しい女だが、飲んだ直後はひどく暴れた。最近はずっとこんな調子だ。
だがたまに、えげつないもんをねだる。……どうやら血が飲みたいらしい。
飲みたいと言った時、毛先の色が明るくなる。何の薬か分からないが、暗殺向きじゃない事は確かだな。
始末したいが、どこぞの藩主の奥方様らしいからな、身元が分かれば何かに使えるかもしれん。
どうだ、やってみて貰えるか? 綱道? ……貴様っグァァッッ!!」
生まれて初めて、人を心の底から憎んだ。
里は一夜で燃え尽きた。仲間と家族を失った。追い詰めて自害させたのは人間だ。
けれど江戸で男やもめの自分が不自由しているだろうと、千鶴の世話を手伝ってくれた人々も人間で。
一括りにしてはいけないと、自分に言い聞かせて生きてきた。
だが、この男だけは。八千代殿をここまで貶めたこの男だけは!
どうあっても許せんっっ!!
男に向かって爆発した。堪えてきた怒りが。悲しみが。恨みが。
体中から鬼の気が集まるのが分かり、力が漲る。その力に任せ、男の心臓に脇差を突き立てた。
嫌な感触が手に伝わり、男はそのまま牢の床に崩れ落ちた。そして……呆気なく息絶えた。
綱道はすぐさま八千代を抱えると、牢を脱し夜の闇に紛れて町を抜け出した。
担がれても無反応なその様子が痛々しかった。痩せた体は軽く、三年の労苦を彼の背に伝えた。
……変若水を飲まされた八千代に吸血衝動が出ている。
なら、向かう先は一つ。変若水を薄めた湧き水のある、雪村の里だった。
地下牢の床には男の死体と……赤い液体の入った小瓶が残された。
変若水の小瓶は、次に拾う者を待つように怪しく光っていた。
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