禍ノ子
 兄弟 / 頼


 管制塔を金色に輝かす夕陽が沈み、黒い海の縁に漁り火の灯りがぽつぽつと見え始めても、豪は帰ってこなかった。
 今夜も忙しいのだろう。頼はテーブルの上のメモを一枚ちぎるとペンを走らせた。

『お疲れさま。夕飯は豚肉の生姜焼きです、キャベツも刻んであります。お味噌汁は鍋の中なので温めて食べてね 頼』

 たたみ終えた洗濯物の中から兄のTシャツを一枚拝借し、そこに顔を押し付ける。洗剤の香りに混ざった兄の匂いに、寂しさが増幅した。
 甘すぎる柔軟剤の香りは、最近女性を中心に人気が出ている『ロマンティックで洗練されたアンティークローズ』だ。男の二人暮らしに似つかわしい香りには、大事な理由がある。
 兄に言い寄る女性を、頼は数名確認している。まさか「豪君に近寄らないで下さい」とは言えないので、いろんな方法で牽制していた。
 この柔軟剤もその一つである。完璧な家事の影に、架空の女性の存在を匂わせる事で「あなた達の入る隙間なんて、これっぽっちもないんですよ!」と無言のメッセージを送っているのだ。
 さらに、毎日手の込んだお弁当をつくり、シャツには完璧なアイロンをかけ、皺ひとつない軍服の準備をする。
 おかげで、頼の部屋の本棚には家事のノウハウが詰まった「主婦本」が並ぶようになった。
 けれど、ここまでしないと自分の気が済まない。
 ぶかぶかのTシャツを被ると、頼は豪のベッドに潜り込んだ。
 無条件で兄の匂いに包まれれば、増幅した寂しさも少しはマシになる気がした。

 ――甘い匂いがする。

 噎せるほどのバラの香りに、頼は目を覚ました。
 蒸した夏の夜、つい先程まで雨が降っていたらしい。濡れた空気は澄み渡り、アパートの裏手に野生しているバラの香りが、頼の寝ている部屋まで忍び込んで沈殿していた。
 いい気分になった頼は、寝汗ではり付いた前髪を自分の腕で擦ると、申し訳程度にかけられたタオルケットを剥いで起き上がった。
 みんなが寝静まる夜だ。
 銀色の月だけが、頼の秘密を覗いている。
 頼は飴色のクローゼットにそっと忍び寄ると、そこから白いベビードールを引っ張り出した。てろりとしたシルクの肌触りと、胸元や裾のレースの縁飾りにうっとりしながら触れる。着てみるとサイズが合わずに大きく胸元が肌蹴たけれど、それでもまるで自分がお姫様になったようで高揚した。
 それからドレッサーの前に座って、甘い匂いのする香水を自分の体に吹き付けた。たくさんある化粧品の中から、コーラルピンクのルージュを選んで、自分の唇に塗ってみた。
 ちっとも綺麗じゃなかったけれど、それでもとても満足して鏡の中の自分を眺めた。
 それを、冷たい氷のように見つめる姿に気がついたのは、切り裂くヒステリックな叫び声がしてからだった。
 まだ状況を理解出来ないうちに張り倒されて、息が止まるほど強く背中を打ち付け、反射的に身を屈める。

 ママ、ごめんなさい!

 骨のひしゃげるような鈍い音がした。
 ぐにゃりと歪む視界。頬に焼けるような痛みが走る。ベビードールに、点々とした赤い染みが飛び散った。

 やめて、やめて、叩かないで!

 次第に口の中まで腫れて、許しを請うことも出来なくなる。
 僕がいけなかったんだ。ママの大切な香水や化粧品を勝手に使ったりしたから。
 赤黒く腫れ上がった僕の顔を見て、ママは泣く。

 ママ、泣かないで、ごめんなさい。



 控えめな物音に気がついた頼は、はっと目を開けた。部屋の中は真っ暗だ。夢と現実の境界が曖昧で、未だにバラと香水の混じった濃い香りが自分を包んでいる気がする。
 しかし深呼吸をすると、頼は宙に霧散していた心と体の位置をベッドの上に落ち着かせることが出来た。
 いけない、いつの間にか眠ってしまったみたい――
 慌てて体を起こそうとしたが、部屋に混じる微かな煙草の匂いに気がついた。
 揺れる気配に神経を集中させていると、唐突に布団が持ち上がり、ベッドのスプリングを軋ませて、豪の体が滑り込んできた。

「ん? 起こしたか」
「ご、豪君、お帰りなさい」
「どうした、俺のベッドなんかで寝て」
「……、ごめんなさい」

 本当は、すぐに自分の部屋に戻るつもりだった。豪が帰ってくるまで熟睡してしまう筈ではなかったのだ。

「謝らなくていい……って、また指しゃぶってたのか」
「あっ」

 豪に指摘されて、真っ赤に濡れた親指を隠す。恥ずかしい、こんな癖を見られたくなかった。
 しかし豪は何でもないように涎まみれの指を自分のシャツで拭うと、頼の体を引き寄せた。服を着ていても十分感じられる厚い胸板に頬が触れて、心臓が跳ねる。とろけそうな幸せに、再び思考がまどろんだ。

「……崇臣が、迎撃班の訓練所まで来ていた。何かあったか」
「な、なんで?」
「あいつが俺んとこに来るときは、必ずお前絡みだ」
「臣君、何か言った?」
「いや、何も」

 苦笑して髪を撫でられる。大きな掌に存分に甘やかされながら、頼は安心して溜め息をついた。

「……なあ、頼。欲しい物あるか?」
「え?」
「今度、十六の誕生日だろう」

 驚いた頼は水色の瞳を真ん丸にすると、首を横に振った。

「ううん、何もいらない」

 毎年決まったように繰り返される会話に、豪は一瞬沈黙した。

「これでも一応副長なんだ。お前の欲しい物くらい買ってやれるから、」
「……本当に、何もいらないよ」

 頼の答えは一貫して変わらない。

「なあ、頼……お前、まだあの時の、」
「……ん、もう眠い……」

 頼は、無意識に親指をしゃぶり始めた。
 その責任の一端を感じながら、豪はそれを外させると、代わりに自分の親指を咥えさせる。

 ――幼い頃にした約束は、未だに弟を縛り付けているらしい。


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