キリリク小説 | ナノ

ソノトキノキセキ


気分の悪さに目が覚めると、そこは自身の部屋のベッドの上で、間違いなくひとりだった。普段から着ている寝間着代わりのスウエット上下に、手元に置いてある眼鏡、煙草、ケータイ。
僕は頭を擡げ、のど元に襲ってくる昨夜の産物を必死で抑えながら唇を噛んだ。そしてベッドから体を引きはがすと、ぼくはそのまま洗面所へ駆け込んだ。


聞いたことのない名前の酒を、昨晩は浴びるように飲んだ。いつもの仲間と、随分遅くまで一緒だった、と、思う。悪友のひとりに、女のところへ行こうと誘われたけど、それは残っていたほんの少しの理性で断った。この気分は、女の肌で癒されそうにない。僕に今必要なのは仲間でもなく、酒でもなく、女でもなくて…
コックをひねり、出していた水を止めた。顔を上げ、鏡に映る僕のひどい顔。濡れそぼった顔に目の下の隈、カサカサの唇。僕は頬から顎にかけてひと撫でした。
今日は仕事が休みでよかった、と胸を撫で下ろす自分と、なら今日はずっとひとりなのか、と落胆する自分がいた。複雑だった。ひとりになりたいわけじゃない。でも誰かかとつるみたいわけでもない。現に昨日の反動が強すぎてこのざまだ。楽しかった。昨日は仲間と馬鹿を言い合って、酒を飲んで、気分は最高だったんだ。ただ、風俗に行こうとなったとき、酒でショートしたはずの神経が一瞬現実へ呼び起こした。女の子みたいに、その行為に一瞬嫌悪感を抱いた。
固まる僕に、仲間は笑いながら腕を取ったが、僕はその手を払い演技をした。
「ちょ、マジ吐きそう…」
「おい大丈夫かよー」
近くにうずくまる僕に、仲間が背中をさすってくれた。
そう、逃げるための口実で、演技のはずだった。だけどそれからの記憶がない。タクシーに乗せられて、友人の声で僕の住所を伝えていたような気がする。後部座席に横臥位になり、僕はああ、とか、うう、とか言っていたような気がする。そして目が覚めるとベッドの上だった。何かのドラマみたいに、見知らぬ女の子が隣にいただとか、すべて夢だったとか、そんなオチではないようだ。記憶がないながらもタクシー料金を払い、(もしかしたら友人が先に払ってくれたのかもしれない)マンションの部屋にまでたどり着き、服を脱いで寝間着に着替え、眼鏡を外している。少し、笑った。
ランドリーかごに詰めてあったタオルを引っ張りだして、僕は顔を拭いた。すっきりしない。もう一枚湿気をかぶったような、ぬぐえない重だるさ。胃に残る異物、嘔吐感。
僕は冷蔵庫を開け、ペットボトルのお茶を取り出した。栓は開けられていて、口元に残る紅い色に目を伏せながら喉に流し込んだ。空になったそれを持って、僕はベッド下に座り、隣にあるゴミ箱に捨てた。眼鏡をかけ、煙草を手に取り一本くわえてライターを捜す。目に入ったそれは、着火のところに小さなクマの飾りがついたやつだった。
仕事なら、こんなもの見なくてすんだ。仕事なら、この部屋に帰るのは闇に飲み込まれる深夜でよかった。こんなにはっきりと部屋の中を見なくてすんだ。
僕は眼鏡を外した。視界はすぐにぼやけ、明瞭に何も見えなくなった。僕は手探りでライターを手に取り、煙草に火をつけ、それをゴミ箱へ投げ入れた。

人の記憶ってものは、なかなか消えない。うまく作られたものだと思う。脳の中に、体の一部に、もしかしたら空気として、思い出は刻まれていくのかもしれない。思い出したくない時、思い出さなければならないとき、自由自在に操れたらどんなに楽だろう。記憶の操作ができたら、どれだけ傷つかずにすむだろう。
僕は思う。
キミを見つめたこの眼
キミに触れたこの口唇
キミを抱いたこの腕
キミと歩いたこの足
すべてがキミを覚えている。
なぞらえる。
彼女の姿。
消えてなくなってくれ。
そのすべて。
僕は項垂れた。何もかもが重い。重力に逆らえない。僕はそのまま床に突っ伏した。
目に入ったのは僕の相棒。どんなときも一緒だった。彼女にさえ「その子と付き合えば?」なんて笑いながら嫌味を言われたっけ。思い出して目頭がつんと痛む。
手に取って、右上の電源を回す。そのまま左の親指で一番上のボタンを押した。画面に映し出される風景。捲っていくと溢れてくる記憶。ファインダー越しに見た彼女の横顔…
気付いたときはすべてが手遅れだった。
彼女の寂しさを、分かってたのに、僕は知らない振りをした。やり過ごそうとした。このまま流れていくんだと信じていた。いや、信じたかった。
「イワくんのこと、大好きだよ?」
彼女の言葉に、僕はどうしてあげるのが正解だったんだろう。彼女から言い渡された死刑宣告。狼狽えることも無く、縋り付くことも無く、僕は彼女を見つめながら食べていたミルクパンを咀嚼していた。

「でもね、もう先が見えないの」
彼女は泣いていない。なのに鼻声。パンのかすが口の中に広がって、水分を取られるから、僕はすぐにでもコーヒーを飲みたかった。左手で、テーブルの上にある缶コーヒーに口を付けて一気に飲み干したかった。口の中が、カラカラだった。
「ごめんねイワくん」
彼女は持っていた合鍵をテーブルに置いた。そのまま、彼女が部屋を出て行くまで、僕は何もできなかった。
ドアのしまる音を聞いて一呼吸、僕は立ち上がる。そしてその足は玄関に向かわず、ベランダのカーテンを開けた。陽の光が差し込む東向きのベランダ。僕はそこに立つ。寝間着のスエットが少し肌寒かった。
彼女が目下に見えた。足早に、駅へと向かう。片手で顔を覆っているから、もしかしたら泣いているのかもしれない。僕は、彼女がもしかしたらこちらを見てくれるんじゃないかと奇跡を信じたが、彼女は一度も振り返ること無く、角を曲がって姿を消した。
それが、僕と彼女の数年に及ぶ付き合いの最後だった。



今頃になって、涙は溢れ出してくる。記憶が鮮明になってくる。全消去したはずのメモリは、簡単に復元できる。僕は、廃人だ。










ピンポーン










ドアホンが2度、部屋に響く。
「…」
再び、2度鳴った。
「…」
僕は気怠い体を起こし、玄関へ向かう。
















どうしてこのとき居留守を使わなかったのか。
それは今もよくわからない。
それでも、僕はこのときの奇跡を、感謝している。


END