雪月歌 | ナノ



 人間になど、興味はなかった。
 周りの同胞は、人間は恐ろしいものだと言う。我らの住みかを悪戯に侵し、踏み荒し、時に殺める。身勝手な生き物だと。
 しかし森深い場所に住まうわたしは、彼らの姿を見たことがなかったし、関わりさえしなければどうでもいい。ずっと、そう思っていた。

 ――そんな時に。ひとりの幼子が、わたしの住まう森に迷い込んだ。木々の隙間から盗み見みたその幼子は、随分と痩せ細った身体で、今にも転(まろ)びそうになりながら、森の中をあてもなく彷徨っていた。
 弱々しいその姿を眺めているうちに、気づいた時には、わたしは幼子の前に飛び出していて。何故そんなことをしたのか……正直、今でもよくわからない。
「……っ!」
 幼子は声も出さず、体をびくりと震わせて、足を止めた。驚愕に染まる視線をじっと受け止めたまま、私が「名は、」と訊ねると、幼子はこわごわと「……松寿丸」だと答えた。
「そうか。松寿丸、お前は迷い子か?」
「……」
 こくり。縦に振られた首を見て、わたしは意図せず笑みを浮かべた。
「ならば、森の出口まで案内しよう」
「……ぬし、は」
「?」
「日輪の御使い、か?」
 ……何を言っているのだこの人間は。このわたしをつかまえて、御使い、だと。きっと、この髪も肌も服も白い姿に勘違いをしたのだろうが。
 それでもなんだか否定する気にはなれなかった。問いかけた松寿丸の視線が、とてもキラキラと輝いていて。
「そう思うのは、お前の勝手だ」
 言い捨てて、わたしは勝手に歩き出す。慌てて後ろについてくる気配を感じながら、わたしは今更ながらに、この幼子を助けたことを後悔した。


 ――あれよりしばらくの時が経ち。わたしはあの時した後悔が、胸の中でむくむくと大きくなるのを感じていた。
「千歳、」
「また来たのか……松寿丸」
 あの日助けた幼子は、度々わたしの森に現れるようになった。最初のうちは捨て置くはずであったのに、わたしが姿を見せなければ、松寿丸はいつまでも森を歩き回るのだ。そのしつこさといったら……目を見張るものがある。
 我が同胞も、いくら幼子とはいえ、人間が森をうろつくことにあまり良い顔をしない。仕方なく、わたしが相手をしてやるしかないのだ、そう、仕方なく。
「あまり来るな。また迷っても知らんぞ」
「我はもうあの時のような幼子ではない。迷うなどありえぬ」
「幼子の成長とは早いものだな」
 若干の嫌味を込めて言えば、松寿丸はふん、と鼻を鳴らした。全く。どうしたらこう可愛げなく育つのか。人間とはよくわからない。
「まあ来てしまったものは仕方ないな……、これでも食べるといい」
「……なんぞ」
「大福だ。森の社に来た人間が置いていった」
「ふん」
 日に日に鋭くなる目付き。冷たく凍る表情。そんな松寿丸が意外に甘味好きだと知ったのは、つい最近のこと。
 最初は戯れに与えた甘味を、本人は知ってか知らずか――頬をゆるませて食べる姿は、消えゆく“可愛げ”を松寿丸に見いだせる数少ない部分だ。
「千歳は食べぬのか」
「わたしは人の食物に興味がない。森の恵みで十分だ」
「……面妖なやつよ」
 その面妖な奴に助けられたのは、どこのどいつだったか……。しかしまあ、なんだかんだと言いながらも、わたしの元に足繁く通う松寿丸もおかしな奴だと思うし。それを今となっては存外楽しんでいる自分も、面妖な奴なのだろうと思う。


 ――あれからまた、しばらくの時が流れ。松寿丸とわたしのゆるやかな時間もまた、数を増やしていった。
 しかしこの頃、あれほどやってきていた松寿丸が姿を見せなくなった。一抹の寂しさ。胸に広がる靄のような気持ち。この気持ちを、なんと名付けたらいいのか、そんなことをうだうだと考えていたある日。
 がしゃん、という聞き慣れぬ金属音にわたしが閉じていた瞼を開けると、戦装束に身を包んだ松寿丸と目が合った。
「松寿丸……」
「……」
 ずいぶんと恐い顔をして、わたしの目の前に腰を下ろした松寿丸は、昔よりずっと冷えた眼差しを向けてきた。
「我はもう、松寿丸ではない」
「え?」
「毛利元就……それが我の名ぞ」
 元服、というのだったか。人間の間で行われる成人の儀式というのは。そうか、しばらく見ない内に、松寿丸――元就は、それを終えたのか。
「千歳、我は……」
「元就、」
 なにか言いかけた元就を遮って、わたしは静かに彼の新しい名を呼んだ。す、と細められる視線と向かい合いながら、わたしは告げる。
「ならばもう、お前はこの森に来てはならない」
「……何故」
「お前はもう、幼子ではなくなった。“人間”となった。今まではお前が森に訪れることを許していた同胞も、これよりはお前を敵と見なすだろう」
「千歳もか」
「なに?」
「千歳も、我を敵と見なすのか」
 真っ直ぐな眼で見つめられて、わたしは胸の中に広がった靄が、痛みに変わるのを感じた。
「元就、お前は……人間にしては賢しい子だ」
「ふん……、世辞などいらぬ」
「世辞ではない。賢しいお前ならもうわかっているだろう、わたしが日輪の御使いなどではないことを。ただの……狐なことも」
 この白い髪も肌も服も。全てわたしの本来の色だと。
 妖狐と呼ばれる化け狐。それがわたしだ。そしてこの森には、そんなわたしの仲間が沢山暮らしている。小さな社を建て、わたしたちを敬う人間たちもいるにはいるが、多数の人間はわたしたちをただの“妖怪”として見なすだろう。
「それが何だと言うのだ」
「元就!」
「黙れ。我が訊いているのは、貴様の心ぞ」
「わ、わたしは……」

 元就と過ごした日々は……楽しかった。人間になど興味がなかった、わたしの意識を変えるほどに。
 彼が来なければ寂しかった。今日は来るか、と待ち望んでいる自分がいた。彼が現れない日が多くなるほど、彼の身に何かがあったのかと心配になった。
 ああ、そうか。この、わたしが今まで知らなかった気持ちは――

「京の都では、かつて人と交わった狐がいたと聞く」
「……!」
「我と共に来い、千歳」
「もと、なり。お前は……自分がなにを言っているのか、」
「わかっている。くだらぬことを訊くな」
 ぴしゃり、とはねつけられて、わたしの視界が涙で歪んでいく。悲しさではなく、喜びで。
「嫌だと、言ったら?」
「ふん。無理にでも攫うまでよ」
「わたしは、獣だぞ。いつか、元就に害をなすかもしれない」
「貴様は白狐であろう?ならば人に害はなさぬ」
「……狐憑きだと、元就が馬鹿にされてしまう」
「駒が何を言おうと、我が耳には入らぬわ」
 腰を浮かせた元就の細い指が、わたしの真っ白な髪に触れた。
「千歳よ、貴様も我が駒ぞ」
「獣を駒にするか、元就」
「阿呆め、千歳は獣などではない」
 じゃあなんだ、と泣きながらわたしが訊けば。優しい手つきで涙をそっと拭われて、元就は微笑った。
「我は、日輪の御使いを駒にしたのだ」


ぼくの光はキミだけ



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