雪月歌 | ナノ



 うららかな春の季節。小田原は、昼夜を問わず雅やかな色に染まる。
「あなたにも桜を愛でる趣味があったのね、風魔」
 小田原城の一角。暗闇に幽玄と咲く桜から視線を外さずに、千歳は自分に近づく影に声をかけた。
 千歳が氏政の養女となって、半年。氏政が自分にとつけてくれたこの風の悪魔と、はじめはどう接したらいいか迷ったものだが。
 言葉も発さず、表情を変えることもない。しかし、付かず離れず、絶妙な距離感で自分を見守ってくれているこの忍を、彼女は存外気に入っていた。
「(姫、風邪を引く)」
「もう。水をさすようなこと言わないでよ」
 声を出さない彼と会話がしたくてたまらなくて、読唇術を覚えたのは、ここに来て一月が経った頃だったか。
 最初はそれでも、彼は自分と会話を交わしてはくれなかったけど。それでも粘り強く話しかけて、最終的に彼が折れたのは……はて、いつのことだったか。
「ねえ、風魔」
「……」
「私を、あそこに連れて行きなさい」
「(フルフル!)」
 あそこ、と千歳が指したのは、ずいぶんとまた高い位置にある、太い枝の一本だった。
 全力で拒否の意思表示をする小太郎だったが、彼女の粘り強さ――否、小太郎にしてみれば執念深さか――は、身を持って知っている。どうせ己がはいと言うまで、折れることはないのだろう、と思えば……。

「すごい景色ね!視界全てが桜色に染まっているのなんてはじめて」
「……」
 ああ、結局連れてきてしまった。彼女を横抱きに抱えたまま枝に腰かけた小太郎は、人知れずため息を吐く。
「まるで、桜の花びらに抱かれているみたい」
 しかし。きゃあきゃあと愛らしくはしゃぐ彼女を見ていると、それほど悪い気もしなくなってくるから不思議だ。
 ふわり、この胸に広がる暖かいものはなんなのだろう。感じたことない気持ち。彼女と関わるといつもそうだ。けれど己は、この、少しくすぐったいような気持ちにふさわしい名を、言葉を知らぬから。だから、何なのかはいつまで経ってもわからない。
「風魔、」
「……?(こてん)」
「ありがとう」
「……」
 忍に。悪魔と呼ばれる己に。こんな綺麗な笑顔で礼を言う姫は、千歳以外にはきっといないだろう。忍に感謝など必要ない、と人差し指を彼女の淡い桜色をした唇にそっと添えれば、彼女の頬もまた、やわらかな色に染まった。
「ふ、風魔……っ!」
「(小太郎、)」
「は?」
「(小太郎、と。呼んでほしい)」
 何故、そんな事を言い出したのか。己にもよく理解出来なかったけど。きっと、指にあたる彼女の吐息が思いの外熱かったから。
 その毒のような熱に浮かされたに違いない。
「こ、小太郎……で、いいの?」
「(こくり)」
「なら、あなたも……。こうして二人でいる時は、私を姫と呼ぶのはやめなさい」
「……?」
「……千歳。私には千歳という名前があるのよ!」
 そんなことはわかっている。が、それをそのまま言えばどうなるかはわかっているので、小太郎はひとつ頷き、彼女に覆い被さるように、耳元へ顔を寄せた。
「……っ!」
「(……千歳)」
 声を出せない己が、言葉を伝える方法はこれしかない、とでも言うように。彼女の形の良い耳朶に触れた唇で言葉を紡ぐ。びくり、と。反射的に身を震わせる千歳が、可愛らしく思えて。体勢を戻してふと、慣れぬ笑みを刻んでみれば。
 言葉を失った千歳が、桜よりも赤く染まった。


桜よりも君を愛でたい



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