▼ 04
それに、このままじっと廊下に突っ立っていても暑いだけである。
残してきた姪のことも気になった。早く居間に戻ろう。そう思ってくるりと身体の向きを変える。
「…」
振り返った俺の目に飛び込んできたのは、不思議そうにこちらを見つめる比菜の姿だった。
「…比菜。なんでそこにいるんだ」
「ママたち帰ってくるって、電話あったから…和真に言おうと思って」
「あぁそう…。つーか今の話聞いて…」
「和真、だれとお話してたの?」
しまった。誰もいないものと思い込んでいたせいで、結構キツい口調で(それでもいつもよりは優しかったはずだ)通話をしてしまった。真っ直ぐなその視線が痛い。
…怖いなんて言われたらどうすればいい。さすがの俺もちょっとショックだぞそれは。きちんとフォローをしなければ。
「なんかすごく、怒ってたね」
「いや…あれは怒ってたというか…ごめんな比菜、怖かったか?」
「ううん。別に怖くないよ」
違った。安堵の息を吐く俺に、比菜はさらにこう言った。
「だって和真、電話切る前に笑ってたもん。怖いっていうより、楽しそうだったよ」
「…は?」
「ねぇ、さっき言ってたけんかしてる相手って、今の電話の人?仲直りできたんだね」
…笑ってた?俺が?
はっと我に返って首を振る。そんな訳ないだろ。なんで笑うんだよ。
「比菜、俺は笑ってない」
「笑ってたよー!比菜見たもん!ふって!ふって口が上がってた!」
「それは見間違いだ」
「ちがうよ!信じてよ!」
「比菜のことはいつも信じてるけど、その話だけは信じられない。無理だ」
「なんで!?」
「何でも」
例え可愛い姪の言うことであったとしても、譲れない部分というものがある。
認められない。認めてしまったらもう、そこで全てが終わってしまうかもしれないじゃないか。
「ほら、ママもパパもすぐ帰ってくるんだろ?そんな顔してないでおかえりって笑ってやれ」
むくれた表情を浮かべた比菜を抱き上げて宥める。正直この気温で人肌は暑いが仕方ない。また背中に汗が滲むのが分かった。
「なんで」
「え?」
「なんで和真は大人なのに、意地張るの?」
「…」
なんで、はこっちの台詞だ。
どうして俺はこんなことで責められているんだろう。どうして姪はそこにこだわるのだろう。子どもという生き物は時々理解ができない。いや、女という生き物、か?まぁどっちでもいい。
「じゃあ、俺は大人じゃなくていい」
「子どもなの?でもさっき俺は大人だって言ってたよ」
「そうだ。俺は子どもじゃない」
「じゃあなに?」
「…なんだろうな」
…変な会話。一体俺は何をやっているんだ。
溜息を吐きたくなるのを堪え、繰り返される質問を適当にかわす。
「とにかくこの話はもう終わり。暑いから部屋に戻るぞ」
「えぇ…」
「髪、続きするだろ。次はどの髪型にするか決めとけ」
「うん…」
「そうだ。あとでアイス買ってやるから、今の話は俺と比菜との秘密な」
「…ママにも?」
「特にママには絶対に言ったら駄目だ」
「分かった」
子どもの口から伝わる情報量なんて大したことはないかもしれないが、もし「和真が誰かとこそこそ電話しながら楽しそうに笑っていた」などということが姉に知られれば、おそらく無粋な勘繰りを入れられるに違いない。
ただでさえ結婚だの何だのと口を挟まれてうんざりしているのに、今何やかんや揉めている相手は女ではないどころか、勤務している学校の生徒だ。理事長の息子というやっかいなオプションまでついてくる。バレたら首が飛ぶどころの騒ぎではない。
家族にさえ簡単に知られてはいけない。いやむしろ家族だからこそ知られてはならない。
…本当に、何してんだ俺は。どんだけやっかいな相手に手を出したんだ。
「…意地、ねぇ…」
なんで大人なのに意地を張るのか、と比菜の先程の言葉を思い出す。
これは意地なのか。どの辺が意地なのか。自分から傍に置くと決めた癖に、頑なにあいつを認めようとしないところか。確かに意地なのかもしれない。
居間に戻った後、意地という言葉をネットの辞書で調べてみた。自分の思うことを無理に突き通すこと。なにか物に執着する心…らしい。
「…」
――執着。
たった二つの文字が、俺を動揺させる。
認めない。認めたくない。でも、本当は。
「…大人だから、意地張るんだよ」
口の中で一人呟いた言葉は、当然誰にも聞こえない。だけどそれでいい。俺にさえ聞こえていればそれでいい。
こうなったらとことん意地を張るしかない。張らせてもらおうじゃないか。
いつまで続くか分からない、この奇妙な関係に終わりが来るまでは。
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