DOG | ナノ


▼ 03

自分の知らないうちに、手の届かない場所で、人ひとりの気持ちをこんな風に動かしてしまうような。そんな存在になってしまうのは、どうしようもなく怖いことだ。

じゃあ、手の届く場所なら。

――気がつけば、俺は何故か九条を呼び出していた。

「先生」
「……こっちだ」

九条は呼び出して5分も経たないうちにやってきた。俺からの連絡を期待していたのかもしれない。そわそわと携帯を片手に落ち着かない様子の九条が頭に浮かんできて、なんだかおかしくなった。

「せ、先生?いいのこれ?見つかんない?」
「ほんの少しの間借りるだけだ」

トイレの前に清掃中の看板を立て、辺りに人がいないことを確認してから中に入る。各部屋にトイレは備え付けなので、この共同のトイレを使う人はそれほどいないだろう。

個室に入ってからしっかりとドアに鍵をかけ、便座に腰を下ろした。

「あの……先生……?」

九条は居心地悪そうに目の前に立っている。

「ひぇ……っ!?」

俺はその身体を思いっきり抱きしめた。

「うるさい。大きな声を出すな」
「だ、だって、急にこんな……」
「……」
「先生……?」

丁度俺の頭が九条の腹にくるくらいだったので、鼻先を深く埋めるように腕の力を強めていく。風呂に入ったせいか、いつもと違う香りが鼻腔をくすぐった。さすが高級旅館は石鹸まで高級なのだろう。しつこくなくて上品ないい香りだ。

「……」
「……」
「……」
「……」

しばらくそのままの状態でいると、九条が突然俺の髪を撫でてきた。

「……先生、かわいい」
「はぁ?」
「そうしてると小さい子みてぇ」
「肋骨折られたいか?」

小さい子はお前だろ。

「ひでぇ」

九条が息を吐いて笑ったのがお腹の振動具合でわかる。

「……なんかあったんだよな?」

――普段クソがつくほど鈍いくせに、なんでこういうときは気が付くんだ。

「……お前は」
「うん」

話そうとしている俺も馬鹿なのか。言わなくたっていいはずなのに、どうして。

「俺に振られたとき、辛かったか」
「そりゃな」
「どれくらい」
「そうだなー。心臓を雑巾絞りされたくらい?」

お前そんなのされたこと一回もないだろ。あと死ぬだろ。

「心臓を雑巾絞りされてまで、なんでまだ追いかけようと思った」

九条は少し考えて、「わかんない」と言った。俺は「バカ」と言った。

「説明できないってことだよ!なんでかわかんねぇけど、先生のこと好きなのやめらんなかったの!」
「……」
「先生だって俺のどこが好きかとか説明できないって前言ったじゃん。それと一緒」
「一緒じゃない。あと俺の話はやめろ」
「今は先生の話してんだろ」

ああ言えばこう言うやつだ。腹の立つ。

「最近どんどん生意気になってきたなお前は」
「いひゃひゃひゃひゃ」

抱きしめていた腕を解き、両手で口を捻り上げる。そのついでに後頭部を掴んで無理矢理引き寄せ、キスをした。九条はぱちぱちと目を瞬き、すぐに不機嫌そうな顔になる。

「……旅行中はしないって言ったくせに」

俺が初日に注意したことを指しているのだろう。

修学旅行だからって浮かれるな。必要以上に絡むな。極力二人っきりにもならない。キスやセックスなんてもってのほかだ。俺がこの修学旅行に同行したのは偶然で、本来ならばありえなかった出来事が原因で何もかもが台無しになってしまうなんて、そんなアホらしいことはない。

そのため、この旅行中こいつと俺はほとんど必要最低限の会話しか交わしていない。むしろ学校にいたほうがまだ一緒にいたくらいである。

「気が変わった」
「なんだそれ。俺ちゃんと我慢してたのに」
「じゃあしない」
「いやだ。する」

今度は九条自ら身を屈め唇を寄せてくる。

「ん……」

俺の方が身長が高いので、いつもとはポジションが逆だ。下から掬うようにキスをすると、九条は勝手がわからないというようにぎこちなく舌を動かした。

――応えられない相手から向けられる好意は痛い。はずなのに。

――誰かの「決定的なもの」になるのは嫌だ。そう思っていたのに。

「……なんでだろうな」

ぽす、と再び目の前の身体に頭を凭れる。

「お前のは、痛くなかった」

応える気なんてこれっぽっちもなかったのに。むしろ軽蔑していたはずなのに。

どれだけ追いかけられても、今抱いているような、こんな気持ちにはならなかった。

「お前がずっと」

お前がずっと、こんな風に俺を追いかけてくれればいい。

お前がずっと、俺の言うことだけを聞いていればいい。

俺はとうとう、そんな想いすら抱えてしまうようになった。

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