▼ 03
「そうだなぁ、別に答えてもいいんだけど…その前に一つ」
津々見がベッドのヘッド部分にもたれかかる。木の軋む音がした。
「小山はさ、入社したときのこと覚えてる?」
「まぁ、そんなに昔のことでもないですし、それなりには」
どうして今そんな質問をするのだろう。首を傾げて不思議がっている小山に、津々見はさらに話を続ける。
「そう。じゃあ俺と初めて会ったときのことは?」
「えぇと…」
その頃は確かまだ津々見は課長ではなかったとか、仕事ができる人なんだなぁと思っていたとか、そういうことなら覚えているけれど、初めて会ったときのことを具体的に思い出せとなると話は別だ。
「すみません」
「いや、覚えてないって前提で尋ねたから大丈夫」
気まずそうに視線を下げた小山だが、津々見は特に気を悪くした様子はなく、内心ほっと胸を撫で下ろした。
「俺は覚えてるよ。まず初出勤の日、部の皆の前で淡々と挨拶してる小山を見て、なんて愛想がない子なんだって思った」
「…」
「入社してしばらく経っても、同期の子とかとあんまり会話とかしないし、いっつも一人だし、社会人としてのコミュニケーション能力が欠如してるっていうか…つまんない人間だなって思ってた」
「…それは、そうなんですけど」
何だ。今自分は悪口を言われているのか、それとも叱られているのか、どっちなんだ。彼の言うことが全て事実なだけに返す言葉も無い。
「だけどね、そういう小山に対するイメージが180度変わった出来事があって」
「イメージ…?」
「いつだったかな。多分俺の記憶が正しければ二年くらい前。仕事終わりに皆で飲んだ後、解散してすぐに駅とは反対方向に歩いて行く小山を見た」
二年前というキーワードにはピンとこなかった。だが、当時の自分がどこに向かっていたか、その後何をしていたかは、わざわざ思い出そうとしなくても容易に判別がつく。
待って、と心の中で制止をかけた。だが津々見は当然止まってくれることなどなく、淡々と話しを進めていく。
「変だなって思ったんだ」
あの頃の自分は必死だった。忘れようとして、でも忘れたくなくて、バラバラなままの心と身体をなんとかして繋ぎとめようと足掻いていた。
「そっちはホテル街だし、おかしいなって。住んでる場所も確かこの近辺ではなかったはずだし、どうして電車に乗らないんだろうって。まさか飲みのために数駅の電車代をけちってホテルをとってるわけでもあるまいし、なんでだろうなって。ほんの少し好奇心が湧いてきて、後をつけてみたんだ」
「…あの、津々見さん」
「そこで俺が何を見たかは、わかるよね?」
「津々見さん」
やめてください、と呟く声が震えている。
「男にキスされてる小山」
「…」
やめて、言わないで。
自分のしてきたことを改めて目の前に突き付けられ、傷ついているわけではない。そんなのは今更だ。疑いようのない事実から目を逸らすつもりもない。
「笑ったよ。会社ではあんなに落ち着き払ってて無愛想な奴が、肩抱かれながらホテルに入って行くんだから」
――怖いのは、この人に軽蔑されることだけだ。
昼間は何でもないような顔をして働いて、夜は名前しかしらないような男と会って、ただ行為だけを繰り返し、繰り返し。そんな生活を送っていた小山のことを、勿論彼は知っている。
だけど、ただ知っているのと、実際にその現場を見るのとじゃ全く違う。
まさか、見られていたなんて。
手のひらを握り締めると、皮膚の隙間が汗で湿っていた。じっとりとした感覚がひどく気持ち悪く、無意識のうちに眉を顰める。
――あれ?
不意に何かが引っかかった。
二年くらい前、と言ったか。
その頃の小山にとって、津々見はどうでもいい存在だった。
ただの上司で、会社でも事務的な付き合いしかしていなくて、自分の人生に何ら影響を及ぼさない人物だとすら思っていた。
だが、津々見はずっと、知っていた。
じゃあ、会社で行為に及ぶ自分を見て驚いていたのは、どうして?
全てが変わってしまったあの日のことを思い出す。会社の会議室で、上原とのセックスを見られた日のことだ。
あのとき津々見は、自分に男が好きなのかと尋ねたはずだ。上原と付き合っているのか、とも。それよりも前、二年前に全てを知っていたとすれば、小山がゲイであることを知っていたならば、わざわざそんな質問をするのはおかしい。
胸の奥底から沸々と湧き上がってくる疑問。何も言えずに固まったままの小山の手に、津々見の手が触れた。小さく肩が跳ねる。
「ねぇ、小山」
「…は、い」
「俺がそのホテル街で小山を見たとき、小山はちっとも楽しそうじゃなかった。嫌がるでもなく男のキスを受け止めて、じっと黙って肩を抱かれて、一体何を考えてこの子は男とセックスしようとしてるんだろうって、すごく気になったんだ」
「それは…」
「だからね」
楽しそうな声に恐る恐る視線を上げると、そこにはいつものごとく綺麗に笑う津々見がいた。
「小山のことを俺のものにすれば、全部わかるんじゃないかなって。知りたいなって、思ったんだよ」
「…」
「俺がずっと小山のこと見てたって言ったら、どうする?」
ずっと、と口の中で繰り返す。
ずっと、この人は、俺のことを。
「そう。ずっと」
――ぞくりと背筋に何かが走った。心臓がバクバクと音を立てて動き出す。
「会社でも会社以外でも、たくさんの人に抱かれてきたの、知ってるよ」
「…」
「勿論上原とやってるところに間違えて入っちゃったのもわざと。二人で会議室に入っていくところを見て、付け入るチャンスだと思ったんだ。ずっとタイミングを窺っていたしね」
「どうして、そんなこと…」
「どうして?どうしてって聞いた?そんなの決まってる」
津々見が両手で小山の頬を包み、唇が触れてしまいそうな距離にまで顔を近づけた。
「愛してるからだよ」
「…え?」
――愛、し…え?
突然耳に飛び込んできた聞き慣れない単語に、思考が停止する。
「最初はただの興味本位だったんだ。俺はもともとゲイだったから偏見はなかったし。小山と付き合ってみるのも面白いかなって、その程度でしかなかった。でもね、駄目なんだ。ずっと見てたら、欲しくて欲しくてたまらなくなっちゃったんだよ」
何を、言ってるんだ、この人は。
混乱する小山に構わず、津々見はべらべらと話を続けた。
「なんでだろうね。自分でもわからない。どうしてこんなに好きになったのか、いつからなのかもはっきりわからない。だけど、見れば見るほど、知れば知るほど小山に夢中になった。俺だけ見てくれればいいのにって。相手の男にはものすごく嫉妬したし、小山のことを頭の中で何度も何度も抱いたよ」
脳は彼の言葉を必死で理解しようとしているはずなのに、処理が追いつかない。
ただ、津々見の頭の中で何度も抱かれたという自分の姿は一体どんなものだったんだろう、などという馬鹿げた考えだけが思い浮かぶ。
「黙っていたことは、ごめん。騙したみたいになったことも謝る。だけど今まで小山に伝えた気持ちに何一つ偽りはないから。その他大勢になりたくない。小山の特別になりたい。そのためにはどうすればいいだろうって考えて考えて、ようやく俺は俺だけのポジションを手に入れたんだ」
呆然とする小山の身体を抱きしめ、津々見は最後にこう言った。
「小山の全部が好きだよ」
――それが、小山が数分前にした質問の答えだった。
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