▼ 04
夢じゃなかった。この身体のこの痕が全てを物語っている。あの人の気持ちの全てがここに込められている。
――何、これ。何だこれは。
経験したことの無い息苦しさに襲われて、半ば倒れこむようにベッドに縋り付いた。ぎゅうとシーツを握り締め、布団の中に潜り込む。
「あれ、起きた?」
「!!」
ガチャリと音を立てて浴室のドアが開いた。かと思えばとっくにいなくなっていたはずの津々見の声がして、小山は全身を強張らせる。
どうして。もう帰ったんじゃ。心の中だけで問いかけ、一層深くベッドに身体を埋める。自分でもどうなっているか分からないような、みっともない顔を見せるわけにはいかなかった。
「小山」
来るな。そう言おうと口を開けても、飛び出すのは掠れた声だけだ。昨日散々啼き続けたせいで、喉がカラカラに渇いている。
逃げ場のない状況で打開策を考えているうちに、布団を剥がされてしまった。咄嗟に顔を腕で覆う。
「何してんの」
そんなこと、自分が一番聞きたい。
「…」
「…顔見られたくない、とか?」
「…」
沈黙を決め込む。ベットのスプリングが跳ね、津々見が腰かけたのが見なくても分かった。
「そのメモ、見たんだ?」
ふ、と笑う声がした。小山の手の中に握り締められたままの紙切れのことを言っているのだろう。
「シャワー浴びてたんだけどさ、その間に逃げられるのも嫌だったしちょっと仕掛けといた。その様子じゃ成功したのかな」
…何が「ちょっと」だ。
たったこんな紙切れ一枚でこんなにも心を動かされる自分を、小山は恨めしく思った。
「返事くらいしてよ」
不満そうな声の後、突然腕を掴まれた。びくりと肩が跳ねる。
「小山ってば」
冷たい雫が滴り、小山の上に落ちてきた。シャワーを浴びたというのは本当らしい。
「手、退けて」
「…」
「退けな」
「…」
「…」
ぐぐぐ、と無理矢理こじ開けようとしてくる津々見。負けじと小山も渾身の力で抵抗する。
「…随分と強情だね。そんなに俺が嫌い?」
「…」
――嫌いだ。
嫌い嫌い嫌い。大嫌いだ。
こんな気持ち知りたくなかった。目を逸らしたままでいさせてほしかった。
もっと早くに気がついていれば。津々見が自分のことを好きだなんて言い出す前に関係を断ち切ってしまっていれば。いくら後悔しようとももう遅い。
大事なものを見落としたのは自分だ。この男の気持ちの変化を拾い上げることが出来た瞬間なんて、いくらでもあったのに。
ほら、俺は何一つ変わってない。
楽な方へ楽な方へ流されて受け入れて、結局は全てを壊してしまう。今まで積み上げてきた頑なな気持ちも、簡単に崩れ去ってしまった。
「嫌いでも、いいよ」
津々見の声が上から降ってくる。
「嫌いでもいいから、俺に小山をちょうだい。嫌いな気持ちも全部欲しい。それが俺だけに向けられた気持ちなら構わないから」
「…」
「だからもう、別の人を見るのはやめて」
嫌だ。やめたくない。
そんなことをしたら、「彼」を忘れてしまったら、今度こそ本当に自分は陋劣な奴になる。あさましくて狡くて酷い奴になる。
「…」
顔を隠していた腕を除けゆっくりと起き上がる。ちゃんと言わなければ、と津々見の顔を見た。
「やめたく、ない」
呟いた声はやはり掠れていた。それでようやく彼は小山の喉が嗄れていることに気がついたようだ。だが彼は追及する手を弱めることはしなかった。
「そいつのこと、まだ好きなの」
「…」
好きとか、好きじゃないとか。そんな気持ちを抱く資格は自分にはない。思い続けねばならないのだ。
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