▼ 02
あぁ、そうだ。普通なら、普通の男なら、こんなことで騒いだりしない。こんな簡単なことすらも忘れてしまう程余裕がなくなっていることを思い知らされる。
「いいから行くよ」
それ以上反論することも拒むこともできず、小山は無言で津々見の後を歩く。
渡されたルームキーに印字された号数の部屋に着き、ぼそりと聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「…すみませんでした」
「いいよ。気にしてない」
津々見がカギを開ける。ドアを開いた瞬間、思いっきり強く腕を引かれた。
「まぁ確かに俺も、何もしないなんて言ってないからね」
「!!」
腰を抱き寄せられ、今にも唇がくっついてしまいそうな距離で津々見が笑う。持っていた荷物がドサリと音を立てて床に落ちた。
騙したのかと声を上げる前に口を塞がれた。すぐに舌が入り込んできて、逃げる間もなく絡めとられていく。
「ん…っ、ん、ん、ぅ…」
あぁ、この人のキスは、苦手だ。
弱いところを全て知り尽くしているかの如く轟く舌の動きに翻弄され、ありとあらゆる感覚が敏感になっていった。駄目だと思う隙すら与えてもらえず、むしろもっとと欲してしまう。それくらい、津々見のキスは気持ちがいい。
あっという間に虜にさせられて力の抜けそうな小山に、津々見は吐息だけで囁く。
「…首に手回して、もっと口開けて」
言われるがままに必死で縋り付いた。もう自分が何をしているのかすら曖昧で、与えられる刺激についていくのがやっとだ。
流されているのは十分に理解しているけれど、それでもいい。その方がきっとすごく気持ちがいい。求めるよりも、求められるものを与えるやり方しか知らない。
望んでいなくとも、自分の意思じゃなくとも、そこに快楽があるならば。
「ん、ふぁ…っ!」
津々見の膝が股の間に差し込まれ、絶妙な加減で押し上げられる。驚いて仰け反ったせいで唇が離れ、その間に唾液の糸が伝った。
「やめる?」
そんなこと、いちいち聞かないでほしい。したいなら勝手にすればいい。望む隙なんか与えてもらわない方がいい。
「言いたくないなら、態度で示して」
何も言わないでいる小山に向かって、津々見は自分の唇を指差す。
…続きをしたいなら自分からキスをしろと。そう言っているのか。
「…」
「小山」
身体は淡く熱を帯び、甘い痺れを訴えかけている。溺れる準備はとうに出来ているのだ。これまでの行為で、どれだけこの男が快楽を与えてくれるかも知っている。だけど。
「…結構、です」
自分からそれを望むのは、違う。
「そう」
小山の返事を聞いた津々見は、気分を害した風でもなくするりと身を離した。まるで小山の答えなど聞くまでもなく分かっていたかのようである。
「まぁ、明日も朝早いしね。夕飯はどこか食べに出ようと思ってるんだけど、何か希望はある?」
「いえ…」
あまりにもあっさりとした態度に拍子抜けしてしまった。なんだ、こんな簡単なことなのか。だったらさっさと断ってしまえばよかった。
「…」
あとは、身体の中で燻る熱をどうやって誤魔化そうか。小山の頭の中を支配するのはそれだけだった。
*
取引先との会議は順調に進んだ。と言ってもほぼお互いの意見のすり合わせは済んでいたため、ほぼ合意の確認のような形式的な内容だけだったのだが。
退屈な議事進行を聞き流しながら、自分がここについてくる意味はほとんどなかったのではないかと小山は思った。津々見一人でも十分だったはずだ。
目的を終え、早々と帰路についた小山と津々見は、その足で会社へと引き返した。すぐに帰って休みたいところではあるが、いろいろと終えておきたい作業もある。
「お疲れ様です。どうでした、出張」
「うん、まぁ順調かな。これお土産だから皆で食べて」
「わぁ、いいんですか!これ美味しいですよね!」
津々見が無難な銘菓の紙袋を女子社員に手渡すと、彼女たちは明るい声を上げて喜ぶ。土産を選んだのも買ったのも小山だったが、自分が渡しても喜ばれないことは分かっていたので津々見にその役目を頼んだのだ。
「…」
ふと課内に視線を走らせると、ある人物と目が合った。同僚でもあり性的関係――所謂セックスフレンドの一人でもある、上原だ。あの日津々見に現場を目撃されて以来、行為に及ぶことはお互い避けていたため、何だか随分と久しぶりな気もする。
上原は一瞬驚いたような顔をした後、小山と津々見が並んでいるところを見て複雑な表情になった。すぐに視線を逸らされる。
――まぁ、当然だろうな。気まずいだろうし。
所詮、そんなものだ。彼と自分の関係は性交によって結ばれていたところがほとんどで、それ以外の部分で関わろうとも思えない。
「小山」
「はい」
「とりあえず一旦休憩。コーヒーでも飲もうか」
「はい」
荷物を自分のデスクに置き、言われるがまま津々見の後について行く。
「ブラックだっけ?」
自販機の前で立ち止まり、財布を取りだそうとする津々見を制す。
「あ、いいです。自分が出します」
「そう?じゃあお言葉に甘えて」
「課長は微糖ですよね」
「うん」
何となく覚えていただけなのだが、彼は小山の質問にどこか嬉しそうに頷いた。先に津々見の分を買って手渡し、自分もいつもの銘柄のボタンを押す。
「明日は休みだから」
「分かりました」
「疲れた?」
「少し。でも平気です」
「まぁそうか。会議っていっても大したことなかったからね」
「そうですね」
口に流し込んだコーヒーはいつもよりもぬるく、小山は少し眉間に皺を寄せた。まだ温まっていなかったのか、それとも自販機の不調か。
「この後予定空けといて」
「…はい?」
何を言ってるんだこの人は。ただでさえこの二日間、厄介な相手と寝食を共にして神経をすり減らしているというのに。いい加減に休ませてくれ。隠そうともせず微妙な表情を浮かべた小山が面白かったのか、津々見はおかしそうに笑った。
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