▼ 07
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コンコン、とドアをノックします。
「旦那様、奥様、失礼します。伊原です」
扉の向こうからそう呼びかけると、どうぞと返事が返ってきました。奥様の声です。
「失礼します」
音を立てないように静かな動作で部屋に入ると、奥様がぱたぱたと歩いてきて「どうしたの?」と心配そうに尋ねてくださいました。いきなり押しかけたにもかかわらず嫌な顔ひとつなさらない、優しいお方です。
「旦那様と奥様に、大事なお話があります」
「大事なお話?」
「えぇ」
「わかったわ。こちらへどうぞ」
奥様はそのまま私を部屋の奥に招き入れてくれます。
「譲さん、伊原さんがいらっしゃいましたよ」
旦那様は部屋に置かれたソファの上で山積みにされた書類を読んでいらっしゃいました。私の姿に気がつくと、かけていた眼鏡を外し「どうした?」と柔らかく微笑んでくれます。そのお顔が坊ちゃんにあまりにもそっくりで、一瞬息を呑みました。
「…お取込み中のところ、大変申し訳ございません。お話ししなければならないことがあって参りました。少しだけお時間をいただけないでしょうか」
「あぁ、構わないよ」
「奥様も」
「えぇ、私も構いません」
旦那様と奥様には並んでソファにかけてもらうことにしました。真剣な表情の私を見て二人が顔を見合わせています。
――言わなければ。
「旦那様、奥様」
そう決意し、私は彼らの前で床に跪きました。
「おい、伊原…何を」
正座をし、手をつき、深く深く頭を下げます。
「申し訳ございません」
謝ることでないのはわかっています。後悔など微塵もありません。反省もしていません。
しかしお二人にとって私は、息子を奪った憎い敵なのです。軽蔑されても仕方がないのです。そう思われて当然のことをしているのです。大事な息子を誑かした悪党だと罵られても、言い返す権利も言葉もありません。
「殴ってくださって構いません。家から追い出してくださっても構いません。何をされても当然の報いだと甘んじて受け入れます」
どれだけ罵倒されようと、たとえ殴られようとも、どんなに反対されようとも、それを受け止めるだけの覚悟はできています。
「私のことを憎んだっていいんです」
どれだけ憎まれてもいい。何物にも代えられない、たった唯一の大切なもの。どうしても譲れないもの。
「無理を承知でお願い致します」
坊ちゃん。私の宝物。私の全て。
何があっても、私は貴方のお傍から離れはしません。
「どうか」
もう、決めたのです。
「どうか坊ちゃんを、望様を…私に、ください」
地面に額をぴったりと擦りつけ、私はそう言いました。
私と彼が恋仲であることはこの屋敷中の皆が知っています。けれど、ただ恋人として一緒にいるのと、これから先の人生を共にする「結婚」という選択をとるのとではわけが違うのです。
ましてや私はただの執事で、彼は名門西園寺家の息子。その差はどう頑張ったって埋めようがありません。身分違いも甚だしいのです。
「西園寺家の皆様には感謝しております。身寄りのない私を引き取ってくださった旦那様には、どれだけ報いても報いきれません」
恩を仇で返す、とはまさにこのことかもしれません。
それでも、自分は何を返せるだろう、お世話になった人に何ができるだろう、ということを考えたとき、私には私の真摯な気持ちをお伝えすることしかないと思ったのです。
「望様に出会って、私の人生は変わりました」
望様に出会って初めて、人を愛することの喜びと、愛されることの幸せを知りました。
「許してくださいとは言いません。許せるはずがないと思います」
それでもいい。世間に後ろ指を刺されようとも、世界中の誰からも愛されなくても、私には彼がいれば、それで。
「私は、望様と一緒に生きていきたい」
それが、私の気持ちです。これが私の全てです。この気持ちの他には、何もありません。
「…」
「…」
じっと頭を下げ続けている私に、二人は暫く何も言わず黙ったままでした。
――どれくらいの間、そうしていたか。
「…顔を上げなさい」
旦那様の呼びかけに、私は恐る恐る視線を上げます。
「立って。こっちに来なさい」
「…はい」
言いつけ通り立ち上がり、ソファに座る彼の前に足を踏み出しました。そんな旦那様と私を、奥様が心配そうな瞳で見つめています。
「目を閉じて」
旦那様が怒っている姿を、私は一度も見たことがありません。厳しい人だと思われがちですが、本当はとても優しいお方です。空っぽだった私に居場所をくれたのは、ほかならぬ旦那様でした。
「はい」
なのに。なのに。
――私は、こんなにお優しい方に拳をあげさせてしまうなんて。
「手加減などなさらなくて大丈夫です。思いっきり、どうぞ」
私はそっと瞼を閉じて言いました。不思議と恐怖は湧きませんでした。
「わかった」
ふ、と空気の張り詰める気配がします。
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