■Checkmate!

「――どうか、ご検討を」
 凛とした男の声が部屋に響きわたり、恭しく礼を尽くすように片手を差し出すその振る舞いは悔しいほど様になっている。優しく細められた濃紺の双眸はひどく優しげに真っ直ぐに可奈を見つめていた。





 それは、燈馬と可奈が二人だけで飲んでいる時のことだった。
 高校を卒業してから片手に余るくらいの年月が過ぎ、酒が飲めるようになって以降は、こうして燈馬の家で宅飲みする機会がそれなりの頻度であった。気の置けない友人という意味では気軽に連絡をとれる相手であったし、相応の付き合いもしていたのだが、所謂、適齢期と言われる年齢を迎えてから、今まで以上にその関係性について詮索されることが増えたのだ。
 結婚という二文字を意識する年頃だから…と言えばその通りなのかもしれないが、周りからそれとなく急かされるとあまり気分がよろしくない。恋愛事にはあまり縁のなかった可奈としても独身を貫く気概はないのだけれど、恋人同士のお付き合いだとかその先のことに関しては、今以ってピンと来ないわけで。単に、身近にいる異性の友人だからという一点だけで絡められるのには辟易していた。
 この日も最初は他愛のない話だったはずが、日頃の鬱憤が溜まっていた所為もあり、気がつくといつの間にか愚痴になっていた。

「あーもォ、みんな勝手なコトばっかり言うんだからっ。余計なお世話なんだよ!」
 先日行われた同窓会でのヒトコマを思い出したらしく、グダグダと飲んだくれながら可奈が悪態をつく。こんな時に変に口を挟むと高確率で鉄拳が降ってくるため、燈馬はいつもさわらぬ神に祟りなしとばかりに、ただ黙って可奈の話に耳を傾けているだけだった。
「二言目には口を揃えて『いつ燈馬君と結婚するの? 決まったら教えてね』な〜んて言うんだ。余計なお世話なんだよ! 大体、燈馬君とは付き合ってないし! そもそも彼氏なんていないんだってば!」
 ダンッ! っとテーブルを叩いた可奈が勢いをそのままに、隣に座る燈馬の方に顔を向けた。ポニーテールが彼女の動きに合わせて勢いよく揺れ、艶やかな光を返す。柔らかい髪からふわりと漂う甘い香りに燈馬は目を細めたが、それも一瞬のことで。可奈に気づかれないようにそっと視線を戻した。
「燈馬君だっていい迷惑だよね!?」
 長い髪を憂鬱そうに揺らし目を座らせたまま続けたのだが、返ってきたのは可奈が期待していた同意の言葉ではなかった。
「いえ、僕は迷惑してません。そうやってムキになって否定するから面白がられるんですよ。……いいかげん、慣れたらどうですか?」
 呆れたような声を漏らし、涼しい顔で自分をあしらう燈馬を見て可奈は不満気に鼻を膨らませた。こうも真正面からズバリと痛いところを突かれては返答に詰まる他はない。

 言いたいものには言わせておけばいい、昔から燈馬はそういうスタンスだ。それは今までも十二分に見てきた。だが、幾度となく見てきた燈馬の、一歩引いた"我関せず"といった態度がたまに腹立たしく感じてしまうのは仕方ないと思うのだ。
 確かに自分は年齢を重ねて幾分かマシになってきたとはいえ、未だ売り言葉に買い言葉になることも少なくはないし、年齢に似合わず少々子供っぽいかもしれない。しかし、燈馬の落ち着き払った態度もまた癪だったりするわけで。所謂、八つ当たりだと頭で分かってはいても、感情的には納得できないというやつである。

「そんなこと分かってるってば。でも言われっぱなしだと癪じゃん!」
 幾らかトーンを落としながらも苛々は隠さない可奈を横目で見やり、ぼそりと諦めたように燈馬が溜息をつくのも、やはりいつもの話であった。
「はァ……、要するに改める気はないってことですよね。わかっていましたけど。――そんなに言われたくないなら、言われなくなる方法を考えればいいのに」
「じゃあ何かいい方法があるのかよ!?」
 殆んど八つ当たり気味に詰め寄ると、燈馬はしれっとした顔で事も無げに答えた。
「簡単な話です、誰かと付き合えばいいんですよ」
「問題の解決になってない! 大体、そんな都合よく付き合う相手なんかいるわけないだろ!」
「でしょうね」
 そんなことはお見通しだと言わんばかりに頷いているのもいちいち癪に触る。カチンときた可奈が、ケンカ売ってんのかよ! と、憤慨し声を上げようとした、なんとも絶妙なタイミングで言葉を続けてきた。
「――なので、これはひとつの提案なのですが」
 おもむろに、こほんと一つ咳払いをしてから。燈馬は可奈の目をはっきりと見据え、爽やかな笑顔を浮かべた。
「僕で我慢しておきませんか?」
「いま、なんて言った…?」
「聞こえてなかったんですか? 『僕で我慢しませんか』って言いました」
 燈馬は聞き返したことに気を悪くする風でもなく、人の良さそうな笑みを浮かべたままもう一度さらりと答えると、元のように可奈の方を見ないままグラスに口をつけた。

『ボクデガマンシマセンカ』

 可奈は気持ちを落ち着かせるために大きく深呼吸してからワインを少し口に含み、つい今しがた耳にしたばかりの燈馬の言葉を脳内で反芻する。反芻したところで、その言葉がどういう意図があってのことなのか、まるで意味が解らなかったが。
 たっぷり一呼吸を置いた後、今度は少し声を張りあげた。
「ハァ!?」
 とは言いつつ、勢いに任せて声をあげたまではよかったのだが、続く言葉が見つからない。仕方なしにまじまじと燈馬の横顔に視線を送ってみたのだが、その表情はまったくと言っていい程に変化は見られなかった。
 明らかに、なにかとんでもない言葉が飛んできたような気がするのに、だ。
「それって根本的な解決になっていないような……?」
 可奈がぽつりと独り言のように返すと、彼はにこやかな微笑みで応えた。
「そうですか? とても合理的で建設的な提案だと思いますけど」

 それは、建設的な提案なのだろうか?

 一周廻りまわって今までの勢いが削がれてしまった可奈は、一向に働こうとしない頭に喝を入れるが、思うような効果は現れず乾いた笑いしか出てこなかった。
「……ええと、本気で言ってんの?」
 考えた末にようやくひねり出した言葉がそれで。おそらく自分はかなり間抜けな顔をしているのだろうと思ったが、目の前の燈馬はまったく気にも留めていないようだった。
「いやだなァ、冗談を言っているように見えますか?」
 にこにこと無邪気な笑顔を向けられ、可奈はつられてへらっと笑顔を返す。笑顔と言っても彼とは違って多少引きつっているような気もするが。なんせ完全に予想外の事態に思考が追いつかない。思考停止に陥りそうになったところで、あたふたと目を逸らした。

(これはもしや口説かれてる? いやいや、こいつに限ってそんなことは……)

 言われた言葉をもう一度一句ずつ反芻してみるが、世間一般で言うところの口説き文句と呼ばれるもののようにも思えた。
 そうでないのならば、一体どういう意味なのだろうか。今まで自分たちの間にはそういった要素はなかったはずだ。少なくとも可奈自身はそう考えていた。特に燈馬に関していうと、他人の恋愛沙汰に関して興味があったようにも見えなかったし、自分とのことを除けば、浮いた噂のひとつも聞いたことがない。
 ちらりと横目で伺うも、当の燈馬は涼しい顔をしてグラスを傾けているだけで普段の彼とはなんら変わりないように見える。いつもの何割増しの速さでバクバクと鼓動を打つ心臓を宥めつつ、なんとか気持ちを落ち着かせようと深呼吸してみる。ついでに手元にある飲み物で喉を潤してみたところで、余計に酔いがまわるばかりだ。

(ダメだ、頭が働かない!)

「ごめん、なんか今日は酔いが早いみたい、ハハッ…」
 乾いた笑いで誤魔化し、そう返すのがやっとだったのだが、元凶である燈馬は、答えをスルーしたと言ってもいい可奈の発言を特に気にする風でもなく、軽く窘めてきた。
「だから、飲む前に程々にしてくださいねって言ったでしょう。……いい加減、自分の適量を把握してくださいね」
 呆れたように小言を口にしながらも心配そうに可奈の顔を覗きこむ。
「……大丈夫ですか?」
 落ち着いた静かな声音。呆れ半分、心配半分といったところではあったが、明らかに気遣うような色があった。なんだかんだ言っても基本的に面倒見はいい方だから、その対応が彼らしくないとは言わない。普段と変わらない筈なのに今日ばかりは変に意識してしまう。
「う、うん、だいじょうぶ」
 どうにか絞り出したのはやや上擦った声。思考が追い付かないなりに燈馬の表情をちらりと覗うが、その表情はいつも通りで。つい今しがた口説き文句を吐いたとは思えない淡泊さだ。

(こいつ、どこまで本気なんだろ…?)

 思ったことをそのまま口に出せないまま、回らない頭でぼんやりと考えてみる。
 そういった類の話はしたことがないとはいえ、彼の性格からはこういうことでの冗談は言わない気もする。
 だからといって本気なのかと問うたところで想像がつかないとしか返せないのだが。じゃあいつからそう思っていたのか? と考えてみても可奈に心当たりがあるわけもなかった。






 ――結局。
 燈馬に対する返事は有耶無耶になってしまい、軽く酔いを醒ましてから家まで送ってもらったのだが。
 その日以降に顔を合わせても、ここぞとばかりに近づいてくるわけでも、返事を急かすわけでもない様子に可奈は戸惑いを覚えていた。
 もう少し照れるだとか、なんらかの反応があれば別だったのかもしれないが、彼の態度は今までとなんら変わらず、関係を一新してしまいかねない発言をしたとは到底思えなかった。
 初めは恐る恐るといった感じで距離を取っていた可奈だったが、あまりにも普段通り過ぎたため、戸惑いが焦りとなり不機嫌オーラを纏うようになった。
 それに耐えかねたのか燈馬はげんなりとした様子で溜息を吐いた。

「なにを怒ってんですか?」
「なんでもないっ」
「なんでもないなら、いいかげん八つ当たりはやめてくださいね。顔が怖いです」
「……誰の所為だと思ってんだよ」
 ブツブツと不満気に可奈が呟いても燈馬は心外だと言わんばかりに首を傾げる。
「僕の所為なんですか?」
「そうだよ、燈馬君が変なこと言うからだ。なのに、なんでいつも通りなんだよ!」
 詰め寄ってくる可奈を見て、燈馬は盛大に吹き出した。
「ぷっ……なにを怒ってるのかと思えば、そんなことですか」
「そんなことってなんだよ!? 笑うことないだろ!」
 可奈が言い放つと同時に燈馬の頭に衝撃が走った。
「痛っ、なにするんですか!」
「元はと言えばあんたが変なこと言うからだし、かといって今までとまったく変わんないし……意味わかんないんだよ! これじゃ悩んでる私がバカみたいじゃん!」
 いっそのこと、なかったことにしてしまえば、少しは気が楽になるんじゃなかろうかと思うのだ。だが、内容が内容だけにスルーを決め込むわけにもいかず、ひとりで悶々と考える他はなかった。そんな可奈の悩みなど知らない燈馬が、なんでもないことのように言うのがとにかく腹立たしい。
 完全なる八つ当たりだとの自覚はあったが、今は厄介事の原因を作った彼を責めることでしか心の持って行き場がなかった。
「水原さん、落ち着いてください。僕はバカになんかしてませんよ」
 ポカポカと可奈が両手を振り上げて叩いてくるのを腕で防御しながら燈馬が反論する。
「あなたがどう思っていようと、僕の気持ちは変わらないでしょ」
 その落ち着いた声がゆっくりと心の奥まで浸透していくような気がして、燈馬を見返した。端整な顔と深い色の瞳が可奈を真剣に見つめている。
「そりゃあ、同じ気持ちでいてくれたら嬉しいですけど、今はそうじゃないんですよね?」
「……そう、だけど」
「だから僕は今すぐ、無理に、どうこうしようという気持ちはありません。僕が水原さんを好きなように、水原さんが僕をどう思うかは自由ですし。……重ねて言いますけど、一方的に押し付けるつもりはありません」
「それでもし私が…違う人をす、好きになったらどうすんだよ」
「どうもしません」
「なにそれ…意味わかんない!」
「わからなくてもいいんです。……そういう訳なので気長に待っていますから」
 なにがそういう訳なのかはさっぱり分からないけれど。柔らかな笑顔でさらりと返されて可奈はぐっと唇を結んだ。
「気長にって、いつまで…?」
「さァ、そんなこと考えもしなかった」
 言いながら燈馬は腕を組んで悩むような素振りをした。それはフリではなく大真面目に。ふざけているようにはとても見えない。
「もしも水原さんが、今のこの関係すら嫌だとか迷惑だというのなら別ですけど。……待つのには慣れているから大丈夫です。返事はいつでも構いませんから」

(慣れてるから大丈夫って、なに余裕ぶってんだよ!)

 そう思いはしたが、これ以上八つ当たりするのも躊躇われて。可奈は短く「考えておく」とだけ返すと深い溜息を吐いた。
いつまでに、とは流石に聞けなかったけれど、当人が「いつでも構わない」と言う以上、相応の期間だということが感じ取れた。要はじっくりと自分とのことを考えてくれ、ということだ。

「でも良かった。避けられるのを覚悟してたんですけど、杞憂だったみたいで安心しました。ちょっと心配だったんです」
 そう言いながら子供のように無邪気な笑顔を浮かべる。ひとりご機嫌な燈馬を前にして、可奈はどう対応してよいのか分からずにますます混乱してしまうのだった。







 可奈目線で端的に言ってしまえば、この距離、この関係があまりにも居心地が良過ぎて、敢えて変えたいと考えたことがなかったのだ。

(……燈馬君はその……私と、結婚を前提に付き合いたいと思ってるってことだよね…?)

 いくら可奈が鈍いとはいえど、流れを順序立てて考えてみれば、彼の言葉は求婚の意思を示しているのは明らかだった。
 正直、そんなことはまだまだ先の話だと思っていたし、ましてや燈馬と……などとは考えたこともなかった。だからこそ燈馬も同じだと無意識に考えていた節はある。
 ただ、思い返してみれば。可奈の両親からはそれとなく、どうなっているんだと探るような話を振られることはあったのだ。その度に否定したり、聞こえないふりをしてみたりと、今まで正面から向き合って来なかったのだが、こうまで彼自身からハッキリ意思表示された以上は考えざるを得ない。

 とっつき難くて変わった奴だとは思うが、本人が言うほど人間は悪くないし、人付き合いだって悪くない。顔立ちも整っているから、黙っていればそれなりにお誘いもあるだろうに。

 そもそも、どうして自分なのかがよく分からない。
 無理を言ってお小言や苦言を受けることは度々あったし、特別に女性扱いされたことなんてない。無理なことは無理だときっぱり言うし、無駄に甘やかしもしない。なんだかんだ言っても可奈のやりたいことは可能な限り制限せず、よほどのことでない限り、そこまで言うのならやってみろと常に二、三歩後ろで控えているような感覚だ。
 近いのに遠くて…なのに居心地の良い存在――そんな彼が男女の情として好いてくれていたと知って、正直な話、まだ戸惑いの方が大きいのだが、燈馬に対する感情は嫌なものではなかった。むしろ、今の今まで気づけなかった申し訳なさと自分の無神経さに嫌気が差す。

(私は、燈馬君が好きなんだろうか?)

 "まだ名前がついていない"と自分なりの結論を出したのはもう随分と過去の話だが、改めて考えてみても、好きか嫌いかなどと単純な言葉では片づけられなかった。
 だからといって、このままズルズルと結論を先延ばしにしたままでいるのも居心地が悪い。
 可奈としても顔を合わせるのは気まずかったのだが、敢えて避けるのもあからさま過ぎて。なんとなくいつものように燈馬の家で寛いでいる訳だ。それが普通かと問われれば、一般的ではないのは勿論わかっている。

 好きだったら相手に良く見せたいと思うのはごくごく自然な感情だが、燈馬にはそんな素振りは見られない。かといって、面白がってからかっているようにも見えないし、今までと少しも変りなく友人としての節度は守ってくれている。

(本気じゃない、なんて思わないけどさ…)

 どうして変わらずにいられるんだろう。なんでもない顔をして、なんでもないことのように。
 それが案外と難しいというのは、可奈にも分かる。
 自分にはできそうにもないことが悔しくて。また、こうして意識するようになってしまったことも、燈馬の思い通りになっているようで癪に障るのだ。理不尽な感情だと分かってはいるのに、気持ちがついていかない。子供じみた自分が情けなくて、とにかく悔しかった。
 ただ、相手の立場になって考えてみると、とてもとても自分本位だとは思う。だが、さりとてどうすれば良いのか皆目見当もつかない。
 人畜無害に見える笑顔の裏で、一体になにを考えているのやら。

「やっぱり納得がいかない!」
 バンっと勢いよく机を叩くと、燈馬は横目でちらりと見つめ呆れたように呟いた。
「悩んでくれるのはとても嬉しいんですけど、もう少しなんとかなりませんか?」
「な・に・が!?」
「イライラするのは良くないですし、八つ当たりもやめて欲しいです」
 心底うんざりといった様子で溜息を吐く。

(溜息を吐きたいのはこっちだよ。まったく誰のせいだと思っているんだ)

 言われずともこのままではダメなのも分かっているし、苛々する自分が悪いのも分かっている。
だけど、自分だけが悩んでいるのが気にくわない。調子がくるって仕方ないのだ。
 いくら考えても思考は堂々巡りで。本来ならば気まずいはずじゃないのか、なんて考えてみても、当の彼自身が意に介してないのを見ると考えるだけ無駄なような気もする。


 燈馬はいつも安易に答えのみを教えない。出題者のようにこちらの答えを待つのだ。自分なりに考えて答えを出して欲しいと思っているのだろうが、あまりに普段通り過ぎて居た堪れない。
「……普通ならさ、見込みがないとか思ったら離れない?」
 吐き捨てるように可奈が零すと、燈馬はそれを受けるような形で穏やかな声で答えた。
「そうですね」
「燈馬君の気持ちに気づかなかったのは、悪いと思ってるよ! だけど…」
 そこまで言って、随分と無神経なことを口にしてしまったと可奈は自己嫌悪した。言葉に詰まってなにも言えなくなったのを見やり、燈馬はゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、逆に訊いていいですか?」
「なんだよ」
「先日も訊きましたけど、水原さんは迷惑してるんですか?」
 燈馬の問いかけに可奈はゆっくりと左右に首を振る。戸惑いはしたけれど、その気持ちはとても嬉しかったから。
「離れて欲しいと思ってますか?」
 もう一度ゆっくりと首を振る可奈に向けて燈馬は「それなら良かった」と落ち着いた笑みを返した。
「僕だって、この関係を壊したくはない。形には拘らないと言ったけれど、それでも……もう少しだけでいいから今よりも近くにいたいと思った。だから、知って欲しかったし、考えて欲しいと思ったんです」
「まだ、自分の気持ちがよくわからないんだ」
「水原さんが答えを見つけるまで待ちますよ」
「……燈馬君は、それでいいのかよ。いつになるかもわからない、燈馬君が望む答えを出せないかもしれないのに」

 些細なことかもしれないが、急かさずにその過程を大切にしてくれる彼に対して、自分の気持ちもわからない状態でいい加減な返事をしたくなかった。だけど、長い間待たせて燈馬の時間を無駄にさせてしまうのも嫌だ。それに――

『水原さんは、迷惑してるんですか? ……離れて欲しいと思ってますか?』
『それなら、良かった』

 あの瞬間の眼差しには、ある種の決意が込められていた。燈馬が嘘や冗談で言っているとは欠片も思っていない。さらりと口にしていたけれど、自分を律することに長けている燈馬ならば多分…。少しでもそういう素振りを察知したのならば、きっと一切の連絡を絶ち何も言わずに去るくらいはやってのけるだろう。ある意味では我儘だけれど、自分の要求を他人に押し付けるようなことはしない。対外的なことに関しては我儘を言わないやつだから。
 気が利かない、融通が利かない。正直に言えば、そう思うことも少なくはなかった。だけど、本当に配慮が足りなかったのは他でもない可奈自身だったと思い知って、言葉で言い表すことなんかできなくて。もどかしさで胸がいっぱいになる。


「少なくとも水原さんは真面目に考えてくれる気があるんですよね? 僕はそれがとても嬉しいです」
 落ち着いた声。
「僕の中で既に解は出ているし、あとは水原さんの解を待つだけです。――どんな答えでも構いません。僕は待ちますよ、もう十年待ったんですから」
 そう言って彼は優しい目つきで少年のように無邪気に微笑んだ。
「じゅ……!? え?」
 可奈が落ち込んだ時、彼なりの言葉で勇気づけられたのは一度や二度のことではない。そんな時に目にした笑顔と同質の、悟りきった表情とでもいうのか。
 曇りのない笑みとは言えないが、それがまた様々な想いが込められているようで可奈の胸をついた。
「……待つって言ったって、限度があるでしょ」
 長い間、今の今まで意識してこなかった自分にも、気づかなかった自分にも腹が立つが。

「待つのには慣れていると言わなかったですか?」

 なんでもないことのように答え、いたずらっ子のようにきらりと瞳を煌めかせる。
 その言葉は結論を急がない彼らしくもあり、けっしてなおざりなものではないことは分かる。この先可奈がどのような答えを出したとしても、きっと彼はその言葉の通りに受け止めるのだろう。気持ちを押し付けるのではない。すべての選択肢を相手に委ね受動的ではあるが、執着がないわけでもない。燈馬にとって確かなものは彼自身の気持ちなのだ。そこには確かに揺るぎない強い意志があるのを感じた。

 数学者はロマンチストだと聞いたことがある。
 難問を解くための近道は、素晴らしいアイデアが浮かぶまで腰をすえて待つことだ。

 問題に立ち向かう時の彼を見ているようで、知らぬうちに鼓動が不規則に跳ね上がるのがわかった。

『自分の時間は自分のために使いたいんです』

 悪びれもなく平然と言ってのけたあの頃と、本質的には変わっていない。
 だが、無理だ面倒だと言いながらも、けっして暇だとは言えない時間を裂いてくれるようになったのも。それらはすべて自分のため――ひいては可奈のために。

「どういう結果でも、どれだけ時間がかかっても、それが水原さんが考えて出した結論であるならば受け入れますよ」

 ふわりと散るような屈託のない笑みで言われては堪らない。

 ……ダメだ。
 反則だ。こんなのは反則だ。敵わないじゃないか。

「どうか、ご検討を――」
 言いながら恭しく片手を差し出す燈馬に向かって、可奈は深々と溜息をついた。礼を尽くすように片手を差し出すその振る舞いは、悔しいほど様になっている。
「……やっぱり、燈馬君はズルいと思う」
 一瞬、驚いたように目を瞬かせた彼は、可奈の言葉を否定せずにクスクスと肩を揺らす。
「そうかもしれませんね」
「ぜんぶ計算してたんだろ」
 むっとした様子で言い募る可奈から眼を逸らし、燈馬は口元に手を添え少しだけ考える素振りをして答えた。
「してないとは言いません」
「やっぱり!」
「でもそう上手くいく訳がないんですよ? なにからなにまで上手くいっていたのなら、あと三年は早くこうなってた筈ですから」
 しれっとした顔で。
「さ……えぇ!?」
「まァ、気は長い方なので。僕としてはいつまででも待つつもりではいるんですけど、そろそろ観念してくれると嬉しいですね」
 飄々とした笑みを浮かべる。
「観念するもなにもさ。よくよく考えると、具体的なことはなにも言われてないじゃん!」
 可奈の苦し紛れの負け惜しみに、燈馬はやれやれといった表情で肩を竦めた。
「気は長い方ですけど、こう見えて意外と嫉妬深いんです。……一度手にしたなら逃しませんよ。それでも、共に歩んでくれますか?」
 そう言いながら可奈に対して挑発的な視線を向けると、彼女は顔を真っ赤にしたままバシーンッと勢いよく燈馬の手に重ねた。


Everything comes to those who wait.
The longest night will have an end.




prev next

bkm
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -