このところずっとプログラムの修正作業に追われていた。元々タイトなスケジュールだと思ってはいたけれど、仕様に穴があったりだとか予想以上にバグが多いだとかで作業が思うように捗らない。そもそも要件定義が不十分だし、どうして設計の段階で気づかなかったのか問い詰めたかった。
プログラムソースというものは携わった人間の癖や性格が如実に表れる。今回依頼されたものは、お世辞にも見やすくて解り易い記述とは言えず、最低限のコメントすらないスパゲティコードときている。そのうえ単体テストレベルでチェックすべきものがそのままになっていて、作った人間は一体何をテストしていたんだと言いたくなる。いっそのこと一から作り直した方が早いのではないかと思うほどだが、今さら大幅な仕様変更をするわけにもいかないので、仕方なくそれを読みといては仕様書を自分で起こすという作業を続けている。
時間が足りない。焦りと疲労と苛々から自然とキーボードの使い方も荒くなる。延々とキーを叩く音ばかりが響くなか。
――コトン
僕の仕事を妨げないようにと、いつものように声をかけられることもなくマグカップがデスクに置かれた。控えめに置かれたマグカップからは湯気とともにコーヒーのいい香りが漂ってくる。修正作業に手間取り過ぎて飲食もままならない、そんな僕の窮状をみかねた水原さんが数日前からいろいろと差し入れてくれているのだ。そう言えばこれは何時間ぶりかの水分だ。疲れ切った目を解すため目頭を指で揉みながらカップに口をつけた。
……が、いつもとほんの少しだけ味が違うことに違和感を覚えた。これはこれで美味しいとは思うけど、どちらかというといつもの味が好みだったから。
「いつもすみません、ありがとうございます。……あの、今日は淹れ方を変えたんですか、みず――」
言いながら、差し出してくれた相手に視線を送ったところで思考が停止した。
「ほおお…」
その先には思っていた相手ではなく、ニヤニヤと楽しそうにこちらを覗っている我が妹の姿があった。とてもとても愉快そうに口角をあげながら僕を見て笑っている。
「ゆ、優!?」
「可奈じゃなくて残念でした〜!」
「な、なんで優がここにっ……勝手にどうやって入ってきたんだ!?」
したり顔でうんうん頷く優を慌てて問い詰めたけれど、焦る僕の言葉にはまるで意に反さない。
「勝手にじゃないしチャイムならちゃんと鳴らしたよ〜。反応ないから仕方なくそのまま入っただけだし。……まァ、どうせ可奈が来るから鍵を開けてたんだろうけどさー」
そればかりか訳知り顔で付け加え、楽しそうにくすくすと笑う。
久しぶりに顔を合わせた妹に、どうしてからかわれなきゃならないのか。本当にバツが悪くて仕方がない。
ちらりと時計を見ると15時半を回ったところだ。たしか昨日の時点では彼女は昼過ぎには来ると言っていた筈だったけれど…。楽しそうな優の視線に多少の居心地の悪さを感じながら、こほんとひとつ咳払いをして訊ねる。
「それで、水原さんは……?」
「可奈は用事があるから後から来るって言ってた。だから私だけ先に来たんだよ」
そう言った後、何かを思いついたようにはっと顔をあげて僕を見たかと思うと、嬉しそうに顔を輝かせながらパチンと手を叩いた。
「……あー、わかった! 可奈がいなくて淋しいんでしょ。早く会いたいんだ〜」
確かに言う通りではあるけど、これ以上からかいのネタにされるのは癪だから真顔で即答する。
「そんなわけないだろ莫迦」
「ひっどーい!」
「大体、いくら身内でも来るなら来るってちゃんと連絡するのが普通だろ。水原さんも電話くらいしてこればいいのに……」
そう返すと呆れたような言葉が返ってきた。どうやら優はうちに来る前に水原さんの家にお邪魔していたらしい。
「やっぱりちゃんと聞いてなかったんだ。可奈から電話があった筈だけど」
言われてみれば確かに水原さんから電話があったような気がする。
『用ができちゃって燈馬君ちに行くのがちょっと遅くなりそうなんだ。先に優ちゃんが行くからよろしく!』
ああ、確かにそんなことを言ってたような…。
言葉に詰まった僕に追い打ちをかける。
「思い出した? ……ってことで、私も可奈も悪くないよね♪」
そう言いながらドヤ顔をしていたかと思えば、急に耳元で囁くように爆弾を落とす。
「ねェ、いつ結婚するの?」
その予想外の言葉に飲みかけていたコーヒーを吹き出しそうになり思いっきりむせた。噴き出さなかったことを褒めてもらいたい。
「ば…だっ……いきなりなにをっ。水原さんとは今はまだそういう関係じゃないから!」
言いながらカップを手にして咳き込んでいる僕に対し意地の悪い笑みを浮かべながら続ける。
「ほら、結婚しちゃえば一緒に暮らせるし、なんといってもいちゃいちゃし放題 それに、今はまだってことは、想はそのつもりがあるってことでしょ。……違うの?」
からかうようにニヤニヤ見つめられては堪らない。その視線から逃れるように目を逸らす。こうまで図星をさされては返す言葉もなかった。
「ふむ、否定しないっと。早く可奈が私のお姉さんになってくれたらいいのになァ」
「大きなお世話だ!」
僕の答えが気に入らなかったのか、頬を膨らませながら言う。
「むぅ…妹としては親愛なるお兄様に早く幸せになってもらいたいだけなんだよ?」
「余計なことは言わなくていい。だから水原さんにも――」
クギを刺そうとした僕の言葉に被せるように言葉を重ね、さらに続けた。
「はいはい、わかってますってば、おにーさま。私からは余計なことは言いません。想に恨まれちゃ堪んないから。……でも可奈は鈍いから、はっきり言わないとわかんないと思うよ?」
「無理に関係を変えたいとは思わない。とにかく、水原さんには余計なこと言うなよ!」
念を押すと、優はビシッと手を掲げ敬礼しながら返事をした。
「Yes, sir.」
そして、くるりと身体の向きを変え、後ろを向いたままぼそりと呟く。
「一体いつまで待つんだか――わが兄ながら随分と気の長い話で」
小さいけれどそれははっきりと僕の耳に届いた。
鼻歌を歌いながらトレイを手にキッチンへと歩いていく後姿を見やり、やれやれとため息を吐いていると、優は足を止めこちらを振り返った。
「あ、想! ひとつだけ」
「なんだ?」
「のんびり構えるのもいいけど、しっかり捕まえとかなきゃ誰かに取られちゃうよ? さっきもナンパされてたしねっ。可奈は美人だから虫除けが大変だよ〜」
「優っ!」
ペロッと舌を出して、今度こそそそくさと部屋から出ていった。姿が見えなくなったのを確認して、鍵のかかったデスクの一番上の引き出しを開ける。そして中に眠っていた小さな小箱にちらりと目をやった。
「……言われなくったってわかってるよ」
そう遠くない未来に――
ふうっとため息を吐き、それを大切にしまう。
温くなったコーヒーをもう一度口に含み、画面へと向かった。
*
「――だってさ、かーな♪ 愛されてるね〜」
キッチンへと戻ってきた私は、完全に狼狽している未来の姉(予定)の傍に歩み寄って、その顔を覗き込んだ。
気まずそうに目を逸らした彼女にも、私と想の会話はちゃんと聞こえてたらしく頬だけではなく耳まで赤く染まっていた。
「ゆ、優ちゃん…! ち、違うから、燈馬君はそんなんじゃなくって。……あのっ」
パタパタと手を振りながら必死に答えるけど、動揺のあまりうまい言葉が思いつかないらしい。
「賭けは私の勝ちでいいよね?」
ニヤリと笑んでみせると、可奈はうーっと小さく唸り真っ赤な顔のまま頭を垂れた。ほんっと可愛い♪
コーヒーの味を想が気づくか賭けをしたのだ。
実際、飲み比べてみてもほとんど違いなんてわかんない。よっぽど気をつけてないと気づかないだろうに、想ったら私に気づく前に気づいちゃうんだから。
普段からどれだけ可奈にお世話になっているんだか。
誰がどう見ても想にとっては可奈が一番で。
だからこそ慎重になるのは解らないでもないけど、周りで見ているしかできない立場としてはもどかしくて仕方がない。
「可奈!」
「え…?」
「不器用だし、こうと決めたらてこでも動かないめんどくさい兄貴だけど、よろしくね」
そう言ってウインクすると、照れくさそうにはにかんだ笑顔を返してきた。