『男と女の友情はありえない』というのは世間一般ではよく言われるけれど、私はそうは思わない。現に私と燈馬君は気兼ねなしに言いたいことを言い合える気の置けない友人だ。
高校を卒業した今では流石に毎日会うことはなくなったもののその一点を除けば、そっくりそのまま変わりない日々を過ごしていた。アメリカへ帰るかもしれないと思っていた燈馬君はこちらを拠点に仕事をしていたし、私はというとこれまでのようにトラブル解決の相談をしたりレポートを手伝って貰ったりと、それなりの頻度で大学の帰りや休みの合間に彼の家に顔を出していた。
お互いに手を伸ばせばちょうど届く距離――それは一見近いようで意外と離れてもいて、お互いに手を伸ばしあわなければ相手には届かない距離でもある。実際、恋人に間違われたことも少なくはなかったけど、それは単に行動を共にすることが多かっただけにすぎず、特別に性差を意識したこともそんな素振りをされたこともなかった。
そんな感じだったから、燈馬くんに対する好意に恋愛感情は含まれないのかと問われたならば「ない」と、はっきりと断言できたし、彼だってそう考えているに違いないと思っていたんだ。
それが、その認識が一変したきっかけは、たった一言。
あの時の私は相当に酔っていた。おまけに自分の本音に気づいてもいなかったんだ。
* * *
燈馬君の誕生日を目前に控え、私は少し悩んでいた。
親しくなってからは毎年ケーキを買って、うちの家でお祝いをしていたんだけど。それだけじゃなんとなく味気ない気がして今年は趣向を変えてみたいと思ったんだ。
どうせなら喜んでもらえるものがいい。
燈馬君が喜ぶものってなんだろう? と考えてみたものの、あいつが好みそうなものなんてちっとも思いつきやしない。いろいろ悩んだ末、サプライズ的な面白味はなくなっちゃうけど、確実に喜んでもらえるものを選びたくて直接訊いてみることにしたんだ。あまり高い物じゃなかったらいいなァとドキドキしながら。なのに返ってきたのは、意外にも「水原さんが作った料理を一緒に食べたいです」の言葉だった。
だって、今までも時々ご飯を作ってあげていたんだよ。本当にそんなのでいいのか? と拍子抜けしたんだけど、当の燈馬君はいつになく上機嫌で、それはそれは嬉しそうな顔をしていた。
「片付けなら手伝いますし、メニューはお任せします。楽しみにしていますね」
なんて無邪気に喜んでいる姿を見たら、頑張るしかないじゃない? だから、ああでもないこうでもないと悩む羽目になってしまったんだ。
どうにかメニューを決めて、前日は下準備。当日はお昼過ぎから燈馬君の家に押しかけてキッチンを占領した。
流石にフルコースなんて無理だけど、量は少なめに、だけど品数を増やして。我ながら上出来と思えるものができあがった。
どーだ! とばかりに並べたてた料理を前にしてキラキラと目を輝かせながら幸せそうに目を細める燈馬君を見て、私は十分に満足した。無駄に張り切ってしまったのには特に深い意味はなかったんだけど、やっぱりこうやって喜んでもらえるのは嬉しい。
で、ここからがいつもと違うところで…。
メニューにあわせて燈馬君が良さげなワインを用意してくれていたんだけど、私はそれ以外にもいろんなお酒を用意したんだ。単純に飲み比べてみたかっただけというか。私自身がどれだけ飲めるのか試したかったし、一度くらいは燈馬君が酔ったところを見てみたかったってのもある。つまるところ興味本位ってやつだ。多少羽目を外したとしても、相手が気心の知れた燈馬君しかいないから大丈夫! なんていう短絡的な考えがあった。
燈馬君が止めるのも聞かず「お酒で失敗しないように、自分の限界を知るってのも大切だってば!」と言い切り、飲み続けること数時間。初めは渋々…といった様子だった燈馬君も、飲んでいくうちにいい気分になってきたのか、どんどんお酒が進んでゆき。気がつけば周りには空き瓶や空き缶の山ができていた。
傍らに並べられた空き瓶を眺め、それなりに飲めてるってことは意外と強いのかもなァとぼんやり考えて、ふと視線を隣に向ければ。燈馬君も似たような状態でグデーっと伸びきっていた。所謂、出来上がった状態ってやつ?
そんな燈馬君を見て色っぽいなぁ…と感じたのが最初のきっかけだった。
だって肌は白いしキレイだし、おまけにお酒のせいで顔も肌もほんのりと上気していて色っぽく見える。ホントに羨ましいって思ったんだ。
今までそんなこと考えたことがなかったのに、男の人に色っぽいっていうのはおかしいかなァ…なんて。そんなことを考えながら燈馬君を見ていたら、ふいに笑いが込み上げてきた。くすくすと笑う私を見て、燈馬君は不思議そうな表情を浮かべ小首を傾げる。その仕草がまた可愛くて仕方がなかった。
思えばこの時の私は燈馬君の普段見れない仕草や表情、雰囲気に、いつの間にか呑まれていたのかもしれない。
ふと、燈馬君の口元に目がいったんだ。その形のいい唇と頬がほんのりと赤く色づいて艶やかで、思わずじぃっと見つめてしまった。
その視線に気づいた燈馬君が訊いてくる。
「どうしたんですか?」
「あのさ、燈馬君はキスしたことあるの?」
思わず口が滑ったというか。この時は本当に深い意味もなく、頭を過ったことがそのまま口から出ただけだった。
だから言った後で自分でもびっくりしたけど、それは燈馬君も同じだったらしい。それまでグデーっとしてたのが目を丸くして。ぽかーんと口を開けたかと思うとしぱしぱと何度も目を瞬かせた。
「はァ!? 急にどうしたんですか?」
「いや、なんとなく? 深い意味は全然ない」
「……そういう水原さんはどうなんですか?」
「ないから聞いてるんだってば! で、どうなのさ?」
「えっと、あの、それは……」
どうやら私は返答に困るようなことを聞いてしまったらしい。私の問いに燈馬君は若干目を逸らしながらゴニョゴニョと曖昧に言葉を濁した。
「言葉に詰まるってことはあるんだー」
訊いても答えは返ってこなかったけれど、気まずそうなその表情が全てを物語っていた。
ふーん、へー、ほー、そうなんだー。なんだか微妙に面白くないけど、すごく気になる。
「それって好きな人と? もしかして付き合ってる人がいたりするの? だれ? どんな人なの???」
矢継ぎ早に質問する私に燈馬君は目に見えて不機嫌になり顔を顰めた。
「いませんってば! 大体そんな女性がいるなら、こうやって水原さんと二人きりで飲んだりしませんよ。相手に失礼でしょう」
珍しくムキになって否定する。
「ああ、ナルホド。言われてみればそうだねェ」
うんうんと頷いた私を見て、なにかを言いたそうな顔で此方を睨んだかと思うと。大げさに溜息を一つ落として手酌で一気に呷ってしまった。
ぷはぁっと息を吐き口元を拭うと、とろんとした目でこちらに視線を送ってきた。
「そういう水原さんこそ、どうなんですか? ――彼氏、とか」
そう問うてくるが、微妙に呂律が回っていないし目も座っている。おまけに「聞かなくても大体わかりますけど」なんて失礼なことをブツブツと呟いてたりする。
「いたらこんな話してると思う?」
「やっぱりそうですよね」
さらりと言いきった燈馬君はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべていた。
やっぱりってなんだよ。わざわざ言われなくったって男っ気ないのは自覚してるっての! くそぅ、さっきの仕返しかよ。
腹立たしい気持ちは少しだけあったけれど、本当のことなので言い返せるはずもなく。かといって素直に認めるのは癪だったので負け惜しみの言葉をぶつけた。
「でも、いいなって思う人はたまにいるんだよ。コンパにもよく誘われるし」
その言葉にピクリと燈馬君の眉が反応した。無関心を装ってはいるけれど、まったく視線を逸らそうとはしない。彼の性格や今までの言動からはそういった話に興味があるようには見えなかったので意外に感じた。
「なに、気になんの?」
「そりゃあ、多少は興味ありますよ」
「なんで?」
思わず聞き返すと、燈馬君は不貞腐れたようにぷいっと横を向きながら口ごもった。
「――なんでもです!」
「ふうん、まあいいや。でも話したって面白くもなんともないと思うよ?」
そう言っても燈馬君はこっちをじっとただ見つめるばかりで。ほれ、言えるもんなら言ってみろ! と言わんばかりに視線で促してくる。
一体なんでこんな話になったんだろう。仕方ないなァ…とついつい溜息が出てしまう。
「誘われるけどコンパにはほとんど行ってないよ。あんまり絡まれたくないしさ。その、いいなって思う人も友達として付き合うならいいんだけど、それ以上って考えたらなにかが違うっていうか。なんとなくそんな気になれないんだよね。理想は高くない筈なんだけどなぁ。……なんでだと思う?」
「なんでって僕に聞かれても困るんですが。……そもそも水原さんの理想のタイプなんて知らないし」
燈馬君とそんな話をしたことなんてなかったわけだし、そりゃそうか。
「気が合うってのは大前提なんだけどさ。いざという時に頼りになって優しさを履き違えてない人。それだけなんだよ〜」
はぁ、と本日何度目か知れない溜息を吐きながら言うと、おずおずと燈馬君が聞いてくる。
「彼氏が欲しいんですか?」
「んー、そりゃあ私だってお年頃だし? もしいい人がいるなら付き合ってみてもいいかとは思ってるよ。でも、そしたらこうやって燈馬君と二人きりで飲むなんてできなくなるじゃない。それはちょっと淋しいかな〜って。気が楽だし気を遣わなくていいし」
気を遣わなくていいなんて言ったからなのか、ものすごーく微妙な顔をしていた。
「ってことで、私は話したんだから今度は燈馬君だよ。どんな人が好みで、誰とキスしたの?」
「なんで増えてんですか!?」
「減るもんでもなし、べつにいーじゃん。さくっと吐いちゃえよ」
さっきのお返しとばかりに促すと、困ったような顔をして深い溜息をひとつ。
「一緒にいて安らげる人。あとは……自分にはないものを持っている人、でしょうか」
俯きながら僅かに頬を緩めて。でもそれはお酒の所為だけじゃないと思った。だって、とても優しい顔をしていたから。
「大丈夫だよ、燈馬君って変人だけどいい奴だもん。きっと他にもわかってくれる人がいるって」
発破をかけるためにバシッと背中を叩いてみたけれど「いい人に思われたいわけじゃない」と燈馬君は顔を顰めるばかりだった。
* * *
「それよりも水原さん。いつもこんな飲み方してるんですか?」
「まさか。こんなに飲むのは初めてだって〜。だから心配しなくても大丈夫だよ」
「とてもそうは見えませんけど。……いい加減性別が違うってことだけは頭に入れといてもらわないと困ります。まさかこの年になってわからないとは言わないですよね?」
「解ってるよ〜。でも燈馬君だから大丈夫だって♪」
「それ、全然わかっていませんから! そうやって勝手に安心されても少しも嬉しくないです。もう少し気を遣ってください」
「燈馬くんもそう思うことがあるんだ?」
どうやら図星だったらしい。一瞬、うっと口ごもった後、観念したように口を開いた。
「それは〜その、仕方ないでしょう、僕だって…」
そう言うと困ったように目を逸らす。そんなことに興味はなさそうだったのに燈馬君だって普通の男だったんだ…と思うとなんだか面白くて。悪戯心に火が付いた私は、両腕を首の後ろに回して誘うようにゆっくりと顔を近づけてみた。
「じゃあ……試してみる?」
燈馬君は目をまんまるにして顔を真っ赤に染めこちらを見上げていた。
「本気、ですか…?」
なんとか絞り出したといった感じの掠れた声で。悪いとは思ったけど、その燈馬君の反応がとても面白くてたまらずに吹き出してしまった。
「あはははははは……! 冗談だよ冗談、本気にしちゃった?」
「〜〜〜っ! ほんっとうに酔ってますよね!」
「ああ、そうかもね〜楽しくて仕方ないや〜」
よしよし、この際だからついでに聞いてあげよう。
「ところで今の感じだと燈馬君は据え膳とやらは食ったことあるの?」
「ないですよ! 人をケモノみたいに言わないでくださいっ」
「まんざらでもなさそうだったじゃん。それにキスならしたことあるんでしょ?」
「またその話ですか? そんなのどうでもいいじゃないですか」
「だってこの年でキスもまだだし、燈馬君にすら先を越されてるなんて悔しいだろー。今後の参考に一つ教えてよ燈馬先生っ」
露骨に嫌そうに顔を顰めて大袈裟に溜息を吐いた後、じっとこちらを見つめてきた。
「……そんなに気になるなら試してみますか?」
冗談だとも本気だともつかない口調で。だけど、こちらに送ってくる視線だけは真剣そのものだった。妙な沈黙が流れ、緊張感から胸がうるさく鳴り始める。
「それって本気で言ってる?」
「さあ、どう受け取るかは水原さんの自由です。僕はあなたが嫌がることはしたくないし、するつもりもありませんから。水原さんが『どうしても』というなら別ですけど」
さっきとは立場が逆転していた。冗談めいた口調で言うけれど視線は逸らさない。そんな挑戦的な視線を投げかけながら、あくまでも穏やかな笑みを崩さずに彼は続けた。
「――どうしますか?」
試すってことは、燈馬君と…ってことだよね?
さっきの仕返しかもしれない。思考力が落ちた頭では考えても考えても堂々巡りで、どう答えるべきなのか決まらない。そのままなにも言えないでいると燈馬君はいつものように淡々と告げる。
「そういうことなので、もう絡むのはやめてくださいね」
そうやって、なんでもないことのように軽くいなされたのだけど。
ああ、でも。
うっすらと開かれた唇がとても柔らかそうで。
素直にその唇に触れてみたいと思った。
「じゃあキスしよう?」
好奇心を刺激され、ふわふわと夢心地で頷く。伸ばした指先が頬に触れると燈馬君は擽ったそうに顔を顰めた。私の手に自分の手を重ねながら躊躇いがちに訊いてきた。
「キスしても、あとで殴りませんか?」
「だいじょぶ、可奈ちゃんに二言はないよっ」
そう言っても今ひとつ信じられないといった顔をされる。……そんなに私は信用ないのか?
「燈馬君は私とするのはイヤなの? それとも――」
好きな人がいるから? 私がそう口にする前に燈馬君が慌てた様子で答えた。
「違います! そんなことありません。……でも、どうして?」
「燈馬君が言ったんだろ、嫌がるようなことはしないって。ホントのことだってわかってるもん」
「そうやって、あまり信用されすぎるのも辛いんですよ」
「なんで?」
「お願いですから少しは自分で考えてくださいね」
苦笑しながら、そっと私の頬に手を添える。ただそれだけだったのに体温が上がって気恥ずかしさのあまりに逃げ出したくなった。
「――目を閉じてもらえますか」
自分から言い出したことだから後には引けない。言われるままに固く目を閉じると、顔をゆっくりと近づけてくる気配がした。バクバクと破裂しそうな心臓が煩くて、どうにも落ち着かない。
うう、なんでこんなにドキドキするんだよ!?
吐息が頬にかかり、あと少しで触れる、そう思った瞬間、慌ててストップをかけた。
「ちょ、ちょっと待って! いきなりは、流石にちょっと恥ずかしいかも…」
そう言うと彼は「わかりました」と小さく笑った。
そして恭しく手を取ると芝居がかった感じで手の甲に口づけを落とす。なんだかその仕草が気障なんだけど様になってて。そっちの方が恥ずかしいかもとかいろいろ後悔しても遅い。
「次はどこがいいですか? どこにキスしていいですか?」
問われて少し考える。
「えっと、取りあえず口以外ならどこでも燈馬君の好きなところで……」
そう言うと燈馬君は何故かこめかみのあたりを押さえ、顔をひきつらせた。
「あの、本っ当に取り返しのつかないことになるんで、気軽にそういうことは言わないでくださいね!」
燈馬君の言っている意味が解らなかったけど、すごい剣幕だったので頷いておいた。
額、頬、首筋、耳……。
優しくキスされる。肌にかかる吐息がくすぐったくって触れられる度に身体が熱くなっていく。煩い心臓を何とか落ち着かせようとしたけれど、そんなのは到底無理な話だ。
触れられるのがこんなに気持ちいいなんて思わなくて。心地よさに軽く目を閉じると、それを待っていたかのように柔らかいものが瞼に触れ、そしてゆっくりと唇の上を指が滑るように撫でていった。触れるか触れないかというその動きでくすぐったいような焦れったいような気分になる。
こういうことにはまったく興味なさそうだったのに、一体どこでそういうことを覚えたんだか。随分と手慣れてるなァなんて思っていると、今度はそれが唇に落ちてきた。
一瞬。軽く触れるだけのキス。
離れていく温度が名残惜しくて、それだけじゃとても物足りない。
「とーまくん、今のじゃわかんないよ?」
彼のシャツをキュッと掴んで見つめると、燈馬君は頬を染めて優しく微笑んだ。
「――仰せのままに」
そっと頬に触れる指先が冷たくて心地いい。目を閉じると再び優しい唇が落ちてきた。
初めはそっと遠慮がちに。それから角度を変えて啄むように何度も何度も唇を重ねられる。だんだんと重ねていくうちに気づいたら私自身もたどたどしく舌を絡み合わせていた。燈馬君の手が私の髪を梳いて、背中を撫でるように何度も滑る。
キスがこんなに気持ちのいいものだなんて思わなかった。柔らかくて甘くて、ずっと感じていたいような…。ムズムズと甘い疼きがもどかしくてもどかしくて。ぎゅうっと彼の首に腕をまわしてしがみつく。唾液が口の端からこぼれるのも構わず、呼吸をするのも惜しいくらいに夢中で深く深く舌を絡み合わせる。
なんだろう、この感覚。
もっと触れて欲しい。
もっと燈馬君を感じていたい。
そればかりしか考えられなくて、私はずいぶんと欲張りだなぁと思った。離れていく温度が切なくて、涙が零れそうになった。
「燈馬君。さっきから変なんだ……もっと……」
いくら酔っていても、はっきりと口にだすのは躊躇われて語尾が消えてゆく。
そんな私を見て驚いたような顔をした後、目を伏せた。
「これ以上はダメです。歯止めが利かなくなる。流されてしまったらきっと後悔することになります、だから…」
「誰が? ……燈馬君が後悔するの?」
私の言葉に彼は静かに首を横に振った。
「水原さんが、です。あなたが後悔している姿を見たくないから」
そう言ってを目を伏せ、苦渋に満ちた表情を浮かべていた。
後悔するって、どういう意味なんだよ?
考えようとしても酔いが回った頭では上手く思考が纏まってくれないし、燈馬君は苦しそうな顔をして唇を噛むだけで、それ以上なにも答えてくれない。本気で困ったような顔をしている。
燈馬君は私が嫌がることはしないと言った。私次第だとも言った。それなのにこれ以上はダメだと言う。
もっと燈馬君に触れて欲しいのに。
もっと燈馬君に触れていたいのに。
視界がじわじわと歪んでゆく。
「水原さん、僕は…っ」
燈馬君が焦ったような声を漏らした。
燈馬君ならいいと思ったのに……燈馬君、なら…?
――どうして?
『信頼してるから。本気で嫌がることはしないってわかってるから』
さっき言った言葉に間違いはない。
だけど本当にそれだけ? ――ううん、きっと違う。
ここにいるのが燈馬君じゃなかったら私はそうは思わなかった筈だ。
燈馬君なら、じゃなくて、燈馬君だから、だ。
だからこそ、もっと触れられたいだとか、もっと触れたいと思うんだ。今はっきり気づいた、私は――。
燈馬君が心配そうな表情で私の顔を覗き込む。気遣うような優しい目で。だけど、はっきりと言い切った。
「水原さんが今までの関係を望むなら、一時の感情に流されちゃダメです」
私の腕を掴んだままの両手が僅かに震えている。その表情は酔っているとは思えないほどに真剣だった。
私が望むなら、か。
燈馬君は嫌だと思ってない。そもそも嫌われているのならキスなんかしないよね…?
『お願いですから少しは自分で考えてくださいね』
そうだ、私は考えなきゃダメだったんだ。
どうして燈馬君がそばにいるのか。
どうして燈馬君と一緒にいると落ち着くのか。
ああ、なんだ。燈馬君はずっと……。
ずっと心にあった靄が晴れたような気がした。
どうして今の今まで気づきもしなかったんだろう。
自分の鈍さにとても情けなくなった。悔しさも少しだけ。
燈馬君はズルい。あんなキスをしておいてズルい、酷いよ…。
熱く火照った身体は甘く疼くばかりで、とても収まりそうになく酷く切ない気分になった。
下腹の奥から込み上げてきた切ない疼きが辛くて堪らない。この熱を、身体を、鎮めて欲しい。満たして欲しい。
「大丈夫、私は後悔しないよ。だから……お願い……もっと、して?」
勢いとは言え、私ってばなんてことを口走っているんだろう。心臓がうるさいくらい激しく動いて、呼吸がついていかない。恥ずかしいし、ドキドキし過ぎて死にそうだ。
ちらりと伺えば燈馬君は赤くなった顔をさらに紅潮させていた。私の言葉をどう捉えようかという迷いが、はっきりとその表情に浮かんでいる。
いつも鈍い私に、燈馬君はいつもそうやって気遣ってくれていたんだ。
「たしかにお酒の勢いもあるだろうけど、それだけじゃない。燈馬君なら、じゃなくて、燈馬君だから――」
「反則です。あなたにそんなことを言われたら、我慢できるはずがないじゃないですか」
困ったように苦笑しながら、ぎゅっと抱きしめられた。
「好きです…ずっと前から」
本当は素面の時に言いたかったんだと、耳元で囁くように告げられた。その吐息が、声が、酷く甘くて顔が熱くなる。
「わたしも好き……大好きだよ、燈馬君」
顔を引き寄せてもう一度、深く唇を重ねると、私の上にゆっくりと柔らかい重みがのしかかってきた。