トランクィッロ13

長い長い夢を見ていた。幼い頃の夢。故郷のバロンの町で遊んでいたわたしはとても楽しそうに笑っていた。お兄ちゃんみたいに優しいセシル、同い年だけれどしっかり者のローザ。大好きなみんなで過ごすのが幸せで毎日がとても輝いていたように思う。

後ろからぽんと頭に触れられる感覚。それと同時にドクンと胸が大きく鼓動する。その手の持ち主を振り返ろうとしたはずなのに、わたしの意識は夢の世界から現実へと引き戻された。


「目が覚めたか」

「…ゴルベーザさま…」


わたしが横たわっているベッドに腰掛けてゴルベーザ様は優しい手付きでわたしの髪を梳いていた。耳に馴染むバリトンの響き。細められる美しい青い瞳。あぁ、夢で見たのはきっとこの手の感覚だったんだ。あそこにいるはずのないゴルベーザ様を無意識のうちに求めてしまったのかもしれない。

カラカラに乾いた喉が痛み咳き込むわたしの背を大きな手が支えて身体を起こされる。そばに置かれたグラスに魔法で水を満たしてゴルベーザ様は3日だ、と呟いた。


「そう、3日も眠っていたのね、わたし」

「無理をさせたな」


気遣うような言葉に首を横に振って大丈夫だと笑って見せた。わたしの魔力は全部ゴルベーザ様のものなのだから。傷を負い苦痛に顔を歪めていた彼が今穏やかな顔をしている。それだけで十分だ。

腕を動かした拍子にしゃらりと手首に何かが擦れて見慣れない装飾品に気がついた。青く煌く魔石が連なったブレスレットは光を反射して存在を主張する。


「これは…?」

「私からの贈り物だ」


窓から差し込む陽に照らすと一層その輝きを増す。とても精巧に造られたそれは小さな金属音を立てて揺れた。魅入られたように視線が釘付けになっていたことを気付かれたのか、気に入ったか?と問われてはっと視線をゴルベーザ様の顔へ戻した。


「綺麗…。でも、こんなに素敵なものを本当に貰っていいの?」

「もちろんだ。お前のために造らせたのだからな」

「ありがとう、嬉しいわ」


ゴルベーザ様は立ち上がり、側に置いていた兜を着けた。ここでは好きにしていて構わない、そう告げるとデジョンの術式を唱え闇色の光を喚び出し、その中へ足を踏み入れた。




****




ゾットの塔とは比べ物にならないほど広いこの場所は右も左も分からない迷宮のようだった。時折見たこともない魔物とすれ違っても彼等は相変わらずわたしに攻撃するわけでもなく横を素通りしていく。そんな様子には酷く違和感があったけれど、その度にわたしはこちら側に来たのだと強く実感させられた。


「お前がアイリスか」

「えぇ、そうだけど…。あなたは?」

「私はルビカンテ。このバブイルの塔を任されているゴルベーザ四天王の1人だ」


てっきり、ゴルベーザ四天王はみんなバルバリシアのような美女を想像していたから拍子抜けである。なんて本人に向かって言う気はないけれど、確かに四天王の名にふさわしいほどにこの男からは強い力を感じた。

ルビカンテと名乗る赤いマントで全身を覆った大男はわたしの目をじっと見ると小さくなるほど、と呟いた。怪訝な顔で見返せば低い声で短く謝罪される。


「ゴルベーザ様のお眼鏡に敵う魔道士とはどんなものか、私にも興味があってな」

「あなたも魔道士なの?」

「そうだな、かつては私も一端の魔道士だった」


どこか聞き覚えのある名前。外套は魔力が編み込まれているのか、見慣れない生地はまるで燃え盛る炎に氷までも飲み込まれているようだ。炎、ルビカンテ、魔道士、1人だけ思い当たる人物がいるけれど、まさかそんな。


「…もしかして貴方は、火のルビカンテ様…なの?」

「ほう、私を知っているか」

「当然だわ!」


炎を操らせたら右に出るものはいないと言われていた魔道士、火のルビカンテ様。自己流の術式をいくつも編み出してはその名を轟かせていた。魔道士なら、おそらくほとんどの者が彼を知っている。ミシディアのミンウ様の下にいらっしゃるのだと思っていたのに、まさか既に人の姿を失っているとは思わなかった。


「愚かだった私は自らの力を見誤り死の瀬戸際にいた。それをゴルベーザ様に救われたのだ」


彼の口ぶりから後悔は感じられない。ゴルベーザ様への恩を返すため、彼に仕えて多くの魔物たちを引き連れて役割を果たしているようだ。このバブイルの塔はクリスタルの安置所とされており、その管理もルビカンテの役目らしかった。


「そっか…。わたしもあなたのように、ゴルベーザ様のお役に立てるかな…」


わたしの知るもう1人の四天王、バルバリシア。彼女だって四天王を名乗るくらいだからきっと信頼されていた部下だったに違いない。それでも力を失えば側にいられなくなる。

いつか自分もゴルベーザ様にとって必要のない存在になってしまうかもしれない。そんな日を想像すると漠然とした恐怖に飲まれてしまいそうだ。


「ならば、人の身を捨てるか?」


不安をこぼしたわたしを笑うでも呆れるでもなくルビカンテは至極真面目な顔でそう告げた。なんと言っていいかわからず、言葉が出て来ない。人として生まれ、人として死ぬ以外の道を考えたことなんかなかったのに、ゴルベーザ様の役に立てるというのならそんな当たり前よりもずっとずっと甘美な誘惑のように思えた。


「人は弱い。お前がどれだけ魔道士として優秀であっても限界がある」

「……えっ…と…」

「…いや、すまない、冗談だ。そんなことはゴルベーザ様も望まないだろう」

「だけどもしその必要があれば、きっとわたしはそうするわ。ゴルベーザ様はわたしを独りにしないと言ってくれたけ、ど、……?」


あれ、ゴルベーザ様はそんなことをいつわたしに言ってくれたんだっけ。確かにその言葉を覚えているはずなのに、その時のことを鮮明に思い出すことができない。突然口籠ったわたしにルビカンテの視線が突き刺さる。

夜、遠くに2つの月が見えていて、隣で優しく笑うあなたは…。記憶を辿ってもあなたの姿がぼやけて霞んでいる。ズキンと頭を締め付けるような鈍い痛みが走り、思わずその場に膝をついた。身体がその記憶を拒んでいるようだった。


「…っ…あ、」

「大丈夫か」


ぎゅっと目を瞑って縋るようにゴルベーザ様に貰ったブレスレットを胸に抱き込んだ。触れた石がじわりと暖かい。そうしていればそばにいなくてもゴルベーザ様に守られているようで心が落ち着き、ひどい頭痛もすぐに収まった。


「…ごめんなさい、大丈夫」

「それは?」


ルビカンテの目線を辿るとわたしの手首にたどり着いた。群青色のブレスレットを目前にかざしてにこりと笑って見せる。陽に照らされていないからか、さっきよりも深みを増した魔石がきらりと光った。


「ゴルベーザ様がくれたのよ」

「…そうか」

「わたしは部屋に戻るわ。ずっと寝ていたから、まだ万全じゃないみたい」


何か言いたげな視線を振り切るようにルビカンテに背を向けて元いた部屋へ引き返した。頭痛は収まっても、今度は心にぽっかりと穴が空いているようで落ち着かない。何か、とても大切なことを忘れているような気がする。

虚無感に襲われそうになって息を大きく吸い込んで誤魔化した。思い出せないものを無理に思い出すこともない。何も心配いらない、わたしにはゴルベーザ様がいてくれるのだから。





****





冷たい夜風が頬を冷やす。自身の癖がかった髪がふわりと揺れるのを抑えてセシルは輝く二つの月を見上げた。暗黒の鎧を脱ぎ捨てた今、己の命を削って戦う必要がなくなり精神への負担は減ったとはいえ、これまで辿った道のりは決して明るいものではなかった。振り返っている暇があれば前に進まなければならないが、だからといって簡単に割り切れるほどセシルの心は冷たくなかった。


「眠れんのか」

「…カイン…」


夜風に当たりたかった、そう言えばカインも同じだったのかバルコニーの手すりに背を預けて寄りかかる。月明かりが彼の金色の髪を照らし、その顔に影を落とした。


「もう随分前のように感じるよ、最後に皆で一緒に過ごしたのを」

「…セシル…すまん」

「どうしてカインが謝るんだ」


意識を洗脳されていただけでカインが悪いわけではない。例えローザをそばに置いておきたいという思いがあったとしても、本来のカインならば自ら悪に加担するような真似は絶対にしないのだから。赦すように語りかけると彼は違う、と小さく首を振った。


「ゾットの塔で、アイリスの手を掴んでやれなかった。あいつは俺がゴルベーザに操られている間もずっと俺を信じて呼びかけてくれていたのに」

「カイン…」


後悔するようにぐっと握りしめた掌を額に押し付けるカイン。ローザを助け出すことは出来たけれど、アイリスはバルバリシアに連れ去られ未だゴルベーザの手中だ。あのときカインは崩れゆく塔の中で最後までアイリスに手を伸ばし続けていた。


「大丈夫、僕らが一緒なら出来ないことなんかない」

「そうだな」


俯けていた顔を上げてカインはようやくその口角を上げた。そうだ、そんな風に笑っている方がお前らしい。


「アイリスは俺が必ず助け出す。信じてくれたあいつに礼も言わないままでは、」

「竜騎士の名が廃るって?」


いつもの台詞を取られたからか決まり悪そうに目を逸らされる。もう何度そのフレーズを耳にしたと思ってるんだ。小さく笑いをこぼすとカインもつられて笑った。しんと静まり返る夜の闇に溶けていく2人分の笑い声。こんな風に過ごしていれば、ひょっこりと顔を覗かせたローザとアイリスが何をしているの、とやってきて4人分の笑い声が響くんだ。その光景はいとも簡単に思い浮かべられた。


「アイリスはお前を待ってるよ」

「あぁ。昔から寂しがり屋の妹分だからな」


今頃、1人でめそめそ泣いていなければいいが。わざと冗談交じりに言っているのだと、そうわかっていてもその言葉にだけはどうにも笑い返す気にはなれなかった。

だって彼女はきっと本当に泣いているから。カインの気持ちを聞いてしまったアイリスが涙を堪えるように唇を噛み締めていたことなんか、目の前の親友はどうせ気付いていない。


「…妹、か。本当に…それだけなのか?」

「何か言ったか?」


小さく首を振って否定したセシルにカインは背を向けて部屋へ戻るように促した。今ここで自分たちが喧嘩をしても仕方がないし、無自覚で鈍い男にはそれでもきっと伝わらないのだろうからまだこのまま見守り続けるより他ない。

いつか機会があればガツンと言ってやろう。大切な妹の笑顔を奪う奴は誰だって許さない。そう心に決めてカインの背中を追う。アイリスの兄を名乗るのは自分だけで十分なんだ。

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