トランクィッロ12

雲の上にふわふわ浮いているような、水の中で流されているような、そんな感覚に陥っていた。遠くで誰かがわたしを呼ぶ声に少しずつ意識がはっきりしていく。


「アイリス」

「……?」


気がついたらそこは雲の上でも水の中でもなく冷たい床の上だった。目を開けると真っ先に飛び込んできた金色の長い髪。その髪を辿って目線を上に移すとバルバリシアと視線が交差した。静まり返る辺りを見渡しても誰もおらずわたしたち2人だけしかいない。


「ここは?」

「バブイルの塔。ゴルベーザ様の拠点よ」


ゾットの塔とはまた違う内装ではあるけれど見える限り似たような石造りの床と壁が続いている。わたしを見下ろすバルバリシアは身体の所々に血を滲ませていて、それでも彼女なりの意地があるのか髪だけは綺麗に整えられていた。立ち上がってパタパタとローブについたホコリを払うわたしを尻目にバルバリシアは足早に歩き出した。

黙って後ろをついていけば彼女は一つの扉の前で立ち止まった。戸惑うような横顔はバルバリシアらしくないように思う。開かれた部屋の奥を覗き込めば置かれたベッドにゴルベーザが腰掛けていた。その蒼い瞳がゆっくりと開かれこちらを見る。バルバリシアは僅かに震えると膝を地につけ頭を深く下げた。


「ゴルベーザ様、申し訳ありません。セシルたちは取り逃しました…ですが、アイリスはこちらに」

「…まぁ良い。次はない、それまでに傷を癒しておけ」


再び深く頭を下げたバルバリシアはそのまま風の中に姿を消す。ふわりと浮いたローブが収まる頃にはわたしとゴルベーザの2人だけが残されていた。


「アイリス、よく戻ってきた」

「戻ってきたというか、戻されたというか…」


本意ではないのだと隠すことなく顔に出しておく。もちろん早くバロンへ帰りたかった。両親のことも気になるし、しばらく離れていた故郷は今どうなっているのかわからない。黒魔道士団の皆も無事なのか知りたい。だけれど、同時にあのままカインと一緒にいるのはきっと辛いから心の底からこちら側へ来たことを嫌がれない自分がいた。


「浮かない顔をしているな」

「別に、なんでもないわ」

「カインが何かしたか」


無言で首を横に振るわたしにゴルベーザの視線が突き刺さる。カインは何もしてない、ただわたしが勝手に傷ついているだけなのだから。少しの沈黙の後ゴルベーザはわたしの名前を呼んだ。


「お前にいいことを教えてやろう」

「…何?」

「そう身構えるな、お前の両親のことだ」


バロンの飛空挺技師を同じ地下牢に入れていたが、奴が脱獄した時に2人も一緒に連れて行ったのだと、だから両親は今頃自由になれていると、そう語るゴルベーザの顔をまじまじと見た。その顔は嘘を言っているようには見えなくて伝えられた言葉を頭の中で繰り返す。


「こちら側のクリスタルが揃った今、もうバロンに用はない」


ゾットの塔でシドが言いかけた言葉、きっとあれはこのことだったのだろう。お前の両親は無事じゃ、あの快活な笑顔でそう伝えようとしてくれていたと思うと肩の力が抜けて広がる安堵感にじわりと涙が滲んでくる。

ゴルベーザは立ち上がりゆっくりとこちらへ近づいてきた。温かい手が頬に添えられて上を向かされる。そこで見たゴルベーザはいつかのように酷く戸惑いを浮かべていた。


「お前の涙は…」


見上げた拍子にこぼれ落ちた涙を一粒、彼の親指が拭う。こんなあたたかな温もりを持っている人が、優しい目をする人が、本当にあの非道なゴルベーザと同じ人間なのだろうか。


「今更そんな顔しないでよ…。ときどきあなたのことがわからなくなるわ」

「…私は、うっ…」

「ちょ、ちょっと…!」


力なくもたれるようにこちらへ倒れそうになったゴルベーザを咄嗟に両手で受け止めるように支えて顔を覗き込んだ。肌の色が濃いから気がつきにくかったけれど、かなり顔色が悪い。鎧に隠された身体に傷を負っているのかもしれない。そういえば、セシルたちが手傷を負わせたとバルバリシアが言っていた。なんとか再びベッドに座らせてもう一度顔を近くで見る。苦しげに寄せられた眉間には深くシワが刻み付けられている。


「さすがの私にもメテオは堪えたぞ、あの老いぼれめ」

「メテオ…?!そんな魔法、一体誰が…」


伝説の魔法として名前は当然知っているが使用できる人物が存在しているなんて聞いたことがない。そもそも言い伝えがあるだけでそんなものが実際に存在しているのかも疑わしいとされているものである。ゾットの塔で会った中にいるとも思えない。老いぼれ、とは一体誰なのだろう。顎に手を当てて考え込んでいると不意にアイリス、と名前を呼ばれて腕を強く引かれた。


「…な、なに…?」


両手で肩を掴まれて目の前にゴルベーザの顔が迫っていた。腕を間に滑り込ませて目一杯胸板を押したところでその巨体はびくともしない。離して、その抗議は聞き入れられることなくどんどん近づく顔に遂に唇に塞がれてしまった。


「…や、んっ…」


わずかに開いた唇を割ってざらりとした舌が押し込まれる。いやだ、やめて、言葉にならない声を上げどんなに暴れても敵うはずもなくそれ以上為す術がない。口の中を逃げ回っていたわたしの舌が彼のそれに捕まると一気に吸い上げられ、そして同時に身体から魔力が抜けていくのを感じた。

魔力を吸い取られている。アスピルなんて生易しいものではない。失った分をわたしから奪い取って補充しようというのだ。だめだ、身体を支えることが出来ない。目の前のゴルベーザに縋るように倒れ込むとベッドへ放られた。ギシリと音を立てて一度背中が弾むと同時に視界が暗くなる。コツンと合わせられたゴルベーザの額。手首を強く掴まれて身動きが取れない。彼の鈍色の髪が頬にかかってせめて顔を逸らして逃げようともまた強引に唇を、魔力を奪われる。


「…ん……は……んんっ……やだ…!」

「もう私に従う必要はない。人質はいないのだからな」

「…だったら放して」


見上げた瞳が迷うように揺れたような気がする。どうしてあなたがそんな顔をするの。握られた手首に力を込められて痛みに声が漏れる。


「だが私にはお前が必要だ」

「……わたしが、必要…?」

「そうだ、お前だけだ」


苦しい、何も考えられない。貪るような魔力の抽出によって枯渇した身体は鉛のように重く指一本動かすことすら出来そうにない。


「…ゴル、ザ…、も、やめ、…」

「私の元にいろ、アイリス」

「……わたし、は…」


頭の中に響く声。彼の元にいればこうして求めてもらえる、わたしだけを見ていてくれる。大切に想ってきたあの人はわたしのことなんか見ていないのだから、これ以上傷つく前に忘れてしまえ。悪魔のような囁きは次第に大きくなり抗うことが出来ない。

忘れてしまえ、ゴルベーザ様がいればそれで十分だろう。そう、かな。そっか、そうね、いつまでもあの人の背中を追うよりわたしだけを見てくれて、必要としてくれる人を選んだ方がきっと幸せよね。

わたしを覗き込むゴルベーザの青い瞳に映り込むわたしの同じ色。幼い頃から青い瞳にこっちを見て欲しかった。こうしてわたしだけを写してくれる日を夢見ていた。朦朧とする意識の中で頬を撫でられて唇が重ねられる感覚がどうしようもなく嬉しい。ずっと追いかけてきたあの人の、月と同じ金色の…金色の…?思い出せない、金色と青の…あれは、誰…だっけ……?


「美しい青だ」

「ゴルベーザ、様…」


声が聞こえた。月に連れて行くと。ずっと恋い焦がれていた金色の光。どれだけ手を伸ばしても届かなかったそこに連れて行ってくれるの。そのためならわたしの魔力、全部全部あなたにあげるわ。

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