私という人間の欠損品
「何か変わった事は?」
そう尋ねる白衣の女性に簡潔に短く“いいえ”と答える。彼女はCT写真が映し出された映像を見て、特に変化もないわね、と呟いた。
「日常生活で何か気になる事はある?」
「いいえ、特には」
月に一度の検診の度に繰り返される質問に正直“はい”と答えた記憶はない。変化も気になる事もこれと言って思い当たらない。
「思い出せそうな事はある?」
「いいえ、何も」
そう言うと彼女は、また来月ね、と言った。そしてよく寝なさい、と。別に寝不足だった訳ではないのだけれど…と思いながら診察室を後にした。
「フェーベル?」
支払いのために受付で名前を呼ばれるのを待合室で待っていると名を呼ばれた。聞き覚えのある声に、何故ここで?という疑問が浮かぶ。
「こんにちは、本部長」
顔を上げるとACCA本部長のモーヴが立っていた。何故またこんな場所で会うのだろう。
「おや、君は午前は普通に出勤していなかったかな?」
「はい、午後休です」
「気分が悪いのか?」
ハッとして彼女はその様に尋ねてきた。気を遣わせてしまい申し訳なくなる。通院です、と言うとそうだったか、と私の隣に腰を下ろした。
「本部長こそ、何故病院に?」
「友人の見舞いで来たのだ」
「そうでしたか…」
という事は本部長も午後休なのだろう。本部長は例の件はどうだ?と尋ねてきた。例の件とは、エルシーやグレンヴィルの件だろう。
「まだ詳しい事は分からないんですけれど、一筋縄ではいかなさそうですね」
「何かあったかな?」
「…彼女達を監視してたら、バレてしまいました…すみません」
そういえば、と思い一応報告をする。だが彼女は少し笑って、そうか。と言った。想定内、そういう事なのだろう。
「君の事だ、下手な真似はしていないのだろう?」
「そのつもり、ですけれど」
酒飲みながら尾行してました、とはもしも彼女が既知の事実だとしても言えなかった。でもあの場で何も口にしないのはそれはそれで不自然である。
「本部長…」
「なんだ?」
「ご存知でしたよね、エルシー・オルコットの事」
そう問えば、彼女は息を吐きこちらをチラリと見てから、調べたのか、とまるで独り言の様に言った。
「…はい」
「そうだ、君とエルシー・オルコットは従姉妹同士だ」
調べた内容によると、エルシーは私の母親の妹の娘に当たるらしい。この前、昼食をエルシーと食べた時、彼女が私の事を“イーナ”と呼んだのは恐らくそれが関係あるのだろう、ととりあえず結論付けた。
「あなたはご存知だったんですね、私の事も」
「…ああ、知っている」
彼女も私も、何も知らないまま異動という形でモーヴによって引き合わせられた。本当の意味で何も理解出来ていないのは私だ。
「従妹にあれだけ嫌われるなんて、彼の事が余程大切みたいです…」
親族の彼女に“嫌いだが利用出来るから利用する”なんて言わせる程嫌われるなんて異常だ、と思った。ましてや私は従妹である彼女の事を覚えていないというのに。
「君は案外気にするタイプか」
「少しは、気にしますよ」
モーヴが意外そうに言うものだから少し笑ってしまう。私はどうやら他からどう思われているかを気にしないタイプに見えるらしい。モーヴがどこまで情報を手にしているのか気になってきた。
「…本部長、あなたは私が思い出せない事もご存知なのですか?」
「それは、どうだろう。私は君の思い出せない事が分からないから、知っているとも知らないとも言えない」
「そうですよね…すみません、無意味な質問をしました」
エルシーが私の従妹であり、私が彼女を忘れている事もモーヴは知っていた。きっと彼女は私が13年前に失った記憶に関する事をいくらか知っている。だが彼女にそれらの開示を求めるのは違うだろう、そう思い詫びる。
「取り戻したいか?」
「どうでしょう。自分の事ですが…取り戻したいのかどうか、分からないんです」
特に今の所は必要性も感じませんし、と言うとモーヴは焦って今すぐに答えを出す必要はない、と優しく言った。
「記憶を取り戻しても、取り戻さなくても君は君だ。あまり深く考える必要などない…君がどうしたいか、だろう」
「…はい」
そこまで言うとモーヴはそれではまた、と言って去った。普段はそこまで自分の記憶がない事に関して深く考える事はない。だがたまにふと思うのだ、記憶がない今の私はイーナ・フェーベルという人間の欠損品なのではないかと。
「厄介ねえ…」
今回の事にしても厳密に言えばまだ従妹であるエルシーを思い出せない。エルシーが従妹である、という事実を知ったに過ぎないのだ。ある意味知りたくなかった事実かもしれない。監視する上でその対象が親族というのはやりにくい。私は少し痛むこめかみを揉みながら病院を後にした。
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