酸欠様提出作品/秋山


もうどのくらいの時間が経っただろうか。冷たい床に横たわって死んだ振りをしていた。彼女のように。もっとも、彼女のそれは振りでは無かった訳だけれど。

初めは忘れようとした。共に過ごした時間の全て、泣いた事、笑い合った事、不安でどうしようも無かった事、無我夢中で吐息を混じり合わせた事、あたたかな指を繋いだ事。だけれどそれを忘れるにはあまりにも容量が大きすぎて、全てを消し去るには大変な精神力が要ることを思い知った。そして、僕にはそんな精神力は無い。無いから忘れたかったのに、物事は上手く進まないものばかりだ。
次に僕は共存しようとした。僕の中に貼り付いて離れない、忌々しい程の膨大な記憶と。記憶の中の笑顔は、いつもこちらを向いていた。愛らしく頬を染めて、その記憶は時に僕を快楽へといざなった。だけどその記憶のテープの最後、その眸は虚空を映し、もう二度と僕を映す事は無かった。そのことに気付くといつも猛烈な吐き気に襲われた。頭がおかしくなる程の快楽と絶望の振り幅に疲れ果て、いつしか記憶と共存しようとすることにも限界を感じていた。

為す術が無くなってしまった僕は、遂に逃げ出すという選択肢を取った。勿論記憶から逃げ切ることが出来るなんてもう思ってはいない。だが、ただひとつ記憶から逃げ切ることの出来る場所があるとしたら、僕はそれに賭けたくなった。もう、賭けるしかなかった。上手く行けば再び彼女に会えるかも知れない、そんな綿菓子のような希望もまたその道を選んだ理由だった。

大量の白い錠剤を無心に飲み込んだ。水滴のようにそれはするすると僕の喉を通り抜け、呆気ない程だった。もういいかと思うところで、また無理矢理飲み下した。まだ、まだだ。致死量なんてきっととうに越していた。

まだだよ。

それは僕の記憶の底から引き摺り出されたのか、今となっては分からない。透明な絹のような、あまりにも聞き覚えのある、僕の愛した声が聞こえた。
どれだけ願ってもそれだけは叶わなかったのに、今すんなりと耳に入って来た、その声に僕の頭は支配されていた。驚き、疑問が駆け巡り、目の前が点滅した。喉が反り返る。
「あ、う、ううえぇっ」
床に跳ねる大量の水に混ざった白い模様が、彼女の纏う空気に似ていると思った。まだだよ、と、僕はお預けをくらったらしい。


点滴の管に繋がれながら、あの時の事を思った。彼女が僕をここに引き留めたように感じたのだ。単に僕の妄想かもしれないし、恐らくはそうなのだろう。だけど今回、結果的に僕は生き長らえてしまった。この先また同じことをしようとしても、きっとまた生きてしまう。何度でも、彼女に助けられてしまう気がした。いつかのアスファルトの上と同じように。この身が、彼女と分けた二人のもののように感じた。切り分けられた彼女の心が、僕の欠落した心にまるでパズルのピースみたいにぴたりと嵌まる、そんな図を思い描いていた。
のびやかなきみの生まれた日だ


 
2012/06/05

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