夢の中でこれは夢だと気が付く事が稀にある。現に今がそうだ。妙な浮遊感に白黒の風景、これが夢だと理解するのにはそれで充分だった。僕は見た事も無い海岸線で見た事も無い女と二人で居た。


差し迫る真っ黒な波は、さながら僕の心のようだと思った。僕がこの世で一番恐ろしいと思う、僕の心。精神。独りよがりで後ろ向きなその思考回路。それになぜか酷似して見えたのだ。
他の人間のように、もっと楽しく気楽に要領良く生きられたら、何度そう願った事か。それでも僕の思考はそんなのお構い無しに、そう、さながらこの波のように容赦無く僕に迫ってくる。

びちゃりと足元が波に濡れて、漸く我に返る。
怖い、そう思ってもそこから足を動かす事は出来なかった。否、出来ないのではなく、自分の意思で、そこから足を動かさなかった。

「そこに居たら、濡れちゃうよ」

隣の女が、僕の服の袖を引っ張る。分かってるよ、でも僕は此処を動かない。この黒い波に背を向けてはいけないと、無意識の内に自分にそう荷していたのかもしれない。女の手を振り払うようにして体を揺すった。

「いいから、逃げよ?」

瞬間、ぐいと強く引っ張られ、僕は大きく水柱を立てて後ろに尻餅をついてしまった。びしょびしょに濡れた靴が重たくて立ち上がる気にもならない。

「……何、するんだよ」

見ず知らずの女をきつく睨み付けた。僕は、あの黒い波から逃げてはいけなかったのに。

「何するんだって、普通は逃げるでしょ。貴方の方こそ、足が濡れるのに波から逃げないなんてどうして」

どうして。そう問われても上手く答えられなかった僕は、半ばやけくそに濡れた靴を脱いで海に投げた。ばしゃりと沈んだそれを見届けて、一緒に靴下も脱いでしまう。裸足で砂を踏み締めて立ち上がり、僕はまた海と向かい合う。

「変な人。ね、逃げちゃおうってば」

そうしつこく袖を引っ張る女に目を向ければ、恐ろしいまでに純粋な笑顔で僕を見ていた。
胃を掻き回されるような感覚から必死で目を逸らして、ぐしゃぐしゃの靴下を握り締める。うるさいうるさい、それよりお前は一体誰なんだ。見ず知らずの女に口出しされたくないんだよ。

「――私?私はね、」



びくり、と体が痙攣して目が覚めた。
霧のかかったような頭をごろりと反転させて仰向けになる。
覚えているのは波の恐ろしさと靴の重さと女の笑顔。夢なんてのは、大低目覚めてから5分もしない内に殆ど忘れてしまうらしい。
再び睡魔に侵されそうになるのを理性で払い退け、ベッドから這い出る。
机の上には、膨大な紙の山とさっきからちかちかと光って止まない携帯電話。それでも目を逸らしてはいけないそれらに理性で以って向かい合い、椅子に腰を据える。
しかし、幾分もしない内に列んだ活字がばらばらに見えて来て、頭が鉛のように重くなり、あ、と思った時には口を抑えてトイレへ走っていた。

「う、ぐ ぇあっ」

はあはあと乱れた息を整えて、生理的に零れた涙を拭う。殆ど液体のようなそれが流れていくのを眺めながら、なぜだか僕はさっき見た海岸線を思い出していた。

本当は逃げ出したくて堪らなかった。だって僕は怖い、あの海が、あの紙の山が、鳴り止まない着信が。でも逃げてはいけないんだと、独りよがりな思考の僕はそう決め付けていた。理性に占領された僕は、そんなものはとうの昔に海の底に沈めてしまったつもりだったんだから。
ホンノウ。女の最後の唇のかたち。
そして彼女は海に還る


 
2011/01/10

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