壊してほしい愛だった

スッと開く襖の音が好きだった。開いた奥からあふれ出す光も、それに慣れたころに見える背中も好きだった。ふわりと香る慣れ親しんだ井草の匂い、煙草の匂い、小腹を満たすために置かれた菓子の甘い匂いも同様に。
数え上げればきりがなく、要するに私は、その部屋にあるすべてを好ましく思っているようだった。どれもが他人にとっては大したものではなかったが、私にとってはどこかキラキラとしていた。そしてその中で私が最も敬愛してやまないものは、その光に包まれながら黙々と机に向かっている。

「先生、お客様がいらっしゃいました」

そう声をかけることすら私の中で躊躇いを生んだ。その背をずっと見ていたいと、外をしずしずと歩く女学生のように思った。だがそうすることで迷惑を被るのは目の前にいる先生であり、そうなったら私は首をつってしまいそうだ。だから私は口を開く。自らの保身のため、なんと浅ましい。

「ああ、どこの人だい」

先生は振り向きもせずに私にそう聞き返した。その声は私にやっと届くくらいの小さな声で、窓枠にいた小さな猫がすやすやと眠っていた。カリカリと紙をひっかく音の方が大きいのでは、とも錯覚するが、恐らくそんなことはない、はずだ。

「版元の方だそうで」

ピタリ、とそのひっかく音が止んだ。ああ、と先生は一言言ったきり動かなかった。先生に会う気はないらしい。それを悟ると私は小さく笑って、では、と腰を上げる。

「帰ってもらいましょうか」

一言提案すると、先生は結局振り返りはしなかったがうんうんと二三度頷いた。

「そうしておいてもらえるかい。あと、連絡は手紙にしてもらってくれ」

わかりました、返事をして襖を閉める。木製の床をペタペタと歩いて、応接室に待たせておいた版元の方の所へ顔を出した。私の歩きはお世辞にも早いものではない、先生との会話の間もあってか、結構な時間お待たせしていたと自覚している。それに重ねて「今日先生はお会いになれません、今後の連絡は直接ではなく手紙にてお願いしたいとのことです」と伝えなければならないとは。少し気分が重い。だがこれで先生を煩わせる種の一つが消えるなら、まぁいいことだ。

「お待たせしまして、すみません」

そして私は頭の中で練習していた言葉を吐きだした。練習の甲斐あって噛んでしまうこともなく出てきてくれたその言葉を飲み込むと、向かいに座った版元の方はそうですか、と一言言った。
穏やかそうな男だった。丸い眼鏡と仕立てのよさそうな着物が印象的で、ああ、偉い人なんだ、なんて子供みたいな感想が頭から飛び出していく。そんな人がわざわざ来るなんて、やはり先生はすごい、なんておまけつきで。先生の元に来てどれ程が経ったか、情けない。手紙を書くために必要な住所などの情報を版元の方に渡し、もう一度お詫びを言う。大人しく帰ってくれたあの人に、私の胃は少し救われた。
ちらりと時計を見れば、短針がそろそろ三の字を指そうとしている。八つ時だ、準備をしなければ。傍らに置いてある物のせいか、先生は砂糖の甘さには少し飽きていた。だからその代りに、私は毎日何かしらの果物を剥いて先生にお出ししている。しゃりしゃりと皮をはぎ取るその間に、少し先生のことについて話そう。
先生は最近有名になりだした小説家だ。年齢は私より上らしいが、その差は大したものではないらしい。気紛れな性格で、私のことを書生として置くようになったのもその性格のせいだと聞いた。夜型の生活が多そうな職業だが、先生はいつも11時には床についていた。そして五時には起床して、六時には身支度と朝食を終えて机の前に陣取っている。純粋な朝方だ。それに合わせて朝食を用意するのは少し辛いが、寝る前に予定を確認するときの「すまないね」の一言で頑張れている。そんな私も現金なものだ。とにかくそんな言葉をかけてくださる先生は優しくて、私はついつい、外に出た時、言葉の一つ二つであの方の傍にいられることを自慢する。
おっと、話している間にも作業が終わってしまった。

「先生」

先ほど閉めた襖を再び開けて、私は盆を片手にその背に寄って行った。
隣に陣取り、そっと覗きこんで見えるのは、細い肩と汚れた指、机の上の原稿用紙と万年筆。
ちらりと見えた文章の文字は力強い。だがその内容は字に似合わず繊細で、心臓を直に締められているような切なさが先生の文章の特徴だった。私もそれに魅せられて先生の家の扉を叩いた人間だ。
人柄もそうだが、「先生」を創るそれらのパーツ一つ一つに私は惚れた。先生は、まるで完璧な球体のような人だ。期待を重圧として支える肩も、インクに汚れることも厭わないその指も、ぼろぼろになったその筆も、汚されるその紙も。どれか一つでも欠けたら「先生」にならない。欠けてしまったらきっと、代りを用意する前にこの人は、その傷口からボロボロと崩れてしまうのだろう。そしてその「先生」の中にはなにか、「先生」ではない別の物がすやすやと眠っている。
私はその「先生」という殻を剥いた別の何かを、あの人を好むのだ。

「もう八つ時ですよ」

万年筆を取り上げて、机の隅に置く。お湯で濡らした布巾で先生の指から汚れをふき取る。机の上から紙をどかして、代わりに剥いてきた果物を置いた。楊枝を一本、食べやすいようにさしておく。

「文緒さん」

それが先生の名前。字面や音の響きでは伝わらないだろうが、後姿だけでも目にしてしまえばすぐにわかる。私が敬愛しているその人は、女性だった。

「ああ、すまないね。助かるよ」

男のような言葉づかいをして、髪もバッサリ切り落として、男物の服装をする。人と会うことは極力避け、男として仕事をする。女性が最近なにかと言葉を発するようになってきたが、彼女のスタンスは昔から変わらなかった。上に立つべきは男性である、と、彼女は女性でありながら、全身からそう主張しているようだった。男性を装うことで高みに立ち、弱い自分を守っているのだろうと思う。
白い指が林檎を掴み、しゃくりと一つ齧りつく。用意しておいた楊枝は使われることなく、引き抜いて皿の隅の方に置かれてしまった。少し寂しい気もする。だが指先についた果汁をなめとる舌が赤くて綺麗で、そんな感情は吹っ飛んで行った。
そして、代わりというには首をかしげてしまうが、腹が減った。
殻をむいた先生、つまり文緒さんは卵のようにつるりとした白い肌をしていて、ふわりと林檎のようないい匂いがしていた。まさに、食べてしまいたくなる。ちらりと見えるその首に歯をたてたくなる。
彼女が先生である時はそんな感情浮かびもしないのに、不思議なものだ。「先生」の守りは十分効果があるらしい。
先生の時は肌もインクで黒いし、角ばって、ガチガチに硬そうで、肉のようにしょっぱそうに見える。細くて、肉なんかなくて、失礼かもしれないが、うまそうだなんて微塵も思わない。
女々しいだろうが、私は肉より金平糖のような甘いものを好んだ。肉はまずい、自分たちも肉の塊の癖に、食べる奴の気が知れないとまで思う。先ほど文緒さんに食いつきたいと言ったのと矛盾するが敢て無視することにした。話を戻すが、とにかく私は甘いものが好きだった。そして砂糖の甘味以上に、果実の優しく、だが確かな甘みを好んだ。
その一等好ましいものが、目の前にいるこの人と重なる。とにかく、不思議だと思った。

「御馳走様」

そう考えているうちに、目の前にあった皿は空になっていた。その皿は机の端に追いやられ、早速文緒さんは先生に戻ろうと紙を手繰り寄せている。それは悪いことじゃない。先生のことも私は好ましく思っている。でも、どこか心の隅で惜しいとも思っている。邪魔をしたくなる。万年筆を奪いたい、紙を破って放りたい、肩をつかんで引き倒したい、指を絡めて動かせないようにしてしまいたい。
矛盾している。私はどうやらおかしくなってしまったらしい。

「どうか、したのかい?」

声が聞こえてくる、先生なのか文緒さんなのか、どちらかわからない声がする。
私の尊敬する師であり、高みに立って、私の手なんて指先すら届かないところにいる先生。
今すぐ隣にいて、熟した果実の香を匂わせて、食われるのを待っているように無防備な所にいる文緒さん。
二人が混ざり合って、ともに未完成な状態。そんな存在が、今私を惑わせている。浅ましい、なんて浅ましい。
どちらにしろ私は身動きすら取れないで、このまま何事もなかったように立ち去るのだろう。それが最善なのだから。
文緒さんにしろ先生にしろ、近かろうが遠かろうが、結局私は手なんて出せずにいるのだ。私は師を取らなければならないほど未完成な人間で、自分の感覚で言えば獣畜生と同等なのだ。そんな人間が、こんな人に手を出すなど。

「いいえ、なんでも」

笑ってごまかすのは得意だ。小首をかしげてにっこり笑う、大人がやるには恥ずかしい仕草だが、こうすると笑ってくれることを私は知っていた。こう言うと少し卑怯な風に聞こえるが、実際そうなのだから仕方ない。目を細めて、緩やかに控えめに笑うその表情も私は好きだった。少し満ちた気分になって、どこか重い気持ちが軽くなる。

「君は、嘘があまりうまくはないみたいだ」

ふふふ、と小さく笑い声が響く。
ああ、やっぱり先生はすごい。私の浅い思考なんて何でもお見通しで、その上で私との稚拙なやり取りに付き合ってくださっている。
先生の子供になった気分だ。両の頬にその柔らかな掌を当てられて、優しく嘘を咎められている。これは先生じゃない、文緒さんだ、未完成なこの人が覚えさせてくる嬉しい錯覚だ。先生と文緒さんに挟まれて、今の私は幸せだった。でも、

「言ってごらん。別に、怒りやしない」

寧ろ怒ってほしい、叱ってほしい、私の目を覚ましてほしい。
私は先生も、文緒さんも、どちらも愛しているはずなのに、どちらも壊そうとしてしまっている。おかしいのです、どこか歪んでいるのです、一度壊して立て直さないといけないほどに。

「ただのね、我儘なんです」

「どちらにもよれない浮気者で」

「きっと、貴方から見たら最低な男で」

「私は、私は」

ぼろぼろ、ぼろぼろ。出てくる言葉は先生の書生としては失格であろう程に脈絡がなく、きっと何も伝わってはいないのだろう。それでも言葉はだらだらと漏れ続けた。
それでいいと思った。伝わらなくていいと思った、でも吐き出したいと思った。聞かれたから答えた、けれどそれはただ私を満たすだけのものだった。

「とにかくね、私はね、愛して、いるんです」

あなたを、先生も文緒さんも含めた、あなたを。
心の底から純粋にそう思った。
その純粋さが、私は反吐が出るほど嫌だった。


「壊してほしい愛だった」

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