君がため 中 一方で、渦中の四楓院ひいづるは、陽光差し込む統学院の中庭にて、のんびり舟を漕いでいた。座学に実技にと忙しない学生にとって、昼休みは貴重な休憩時間だ。中庭はその格好の場所のひとつで、ひいづる以外にも学生がちらほらと談笑していたり、はたまた愛を語り合ったりしている。 平和だなあ、といちいち感慨深くなってしまうのは、穏やかとは程遠い学生生活しか知らないからだろうか。当時は次から次へと起こる騒ぎに辟易としたものだった。心の休まる暇もなく、学校を卒業したと思えばあれよあれよという間にボンゴレを継いだから、本当の意味で平穏な時間なんてなかった気がする。 だが、いざこうして静かに過ごしていると、何だか寂しいような気もしてくるのだから不思議だ。そう、ひいづるが思わず苦笑を零した、その刹那だった。唐突に、周囲が騒めき始めた。 「ねえ、あれって、護廷の……」 「……朽木隊長、困ります……!このように突然お出でいただいては……」 その様子につられて、ひいづるも人々の視線の先――中庭の入り口を見やった。黒衣に白い羽織を肩に引っかけたその人を、統学院の教師陣が困ったように取り巻いている。恐らく諌めているのだろう、だって、ひいづるの見間違いでなければ、その人は本来ここにこんな風に立ち入ってはいけない立場なのだから。けれども、彼はそれを意にも介さない。大股でこちらへと歩んでくるのに、ひいづるは急いで駆け寄った。 「紫苑さん、一体……」 どうしたんですか、と訊ねる前に目の前の体躯に強く抱き込まれてしまって、それ以上は口に出来なかった。いつもなら揺るぎない紫苑の霊圧がゆらゆらと揺れ、まるで切っ先のように尖っている。突然現れた隊長格の死神、に女生徒が抱き締められたのに更に騒々しくなる周囲を、ひいづるはすっかり忘れてしまうほど驚いた。こんなに怒っている彼を、随分久し振りに見た気がする。 「恭弥さん?」 小さな小さな声で囁くと、我に返ったように、紫苑がひいづるをそっと離した。その表情は常と変わらない。今も昔も、ひいづるが愛した少年のままだ。 「……ねえ」 「はい」 「さらってもいい?」 「唐突!?」 突拍子のない提案に、ぎょっとするのも、懐かしい。本当に何があったのか。そう問いただす前に、紫苑がひいづるをひょいと抱き上げてしまうから、唖然とする他ない。 「え、ちょ、ひば、雲雀さんっ」 「黙ってないと舌噛むよ」 「ええええええ」 そんな理不尽な、という言葉は紫苑に唇で唇を塞がれてしまったが為に意味を成さず。衝撃に動けなくなったひいづるを米俵を運ぶが如く肩に乗せた紫苑は、何事もなかったかのようにその場を瞬歩で立ち去った。 「ちょ、オレ、まだ授業あるのに…っ」 「サボりな」 「……本当にどうしちゃったんですか?」 「着いたら話す」 流れていく見慣れない風景を横目に、ひいづるは訊ねた。紫苑は確かに唯我独尊だが、ひいづるの意思を無視したり、強制したりはしない。こんな暴挙に出たのには、恐らくそれなりに理由があるに違いなかった。 幾ばくもせずに辿り着いた邸が、彼の目的地であったらしい。瀞霊廷の中心地からは少し外れた閑静な通りに構えられたそこに、紫苑はひいづるを抱えたまま、ずかずかと入り込む。慌てて、ひいづるは声を上げた。 「勝手に入っちゃ駄目ですよ!」 「何でさ。僕の邸だ」 「えっ」 美しく整えられた庭園で漸く下ろされたひいづるは、思わず辺りを見回した。朽木家や四楓院家ほどではないにしろ、大きな邸だ。邸の端々に藤の木が植えられて、紫の美しい花を揺らしている。 「――きみと僕の婚約が、本日付で解消された。」 紫苑が口を開いたのに、ひいづるは振り返った。 「解消って」 「朽木家の意向だ。きみを蒼純の正室にしたいらしい」 「……オレ、男なんですけど……。四楓院家は了承したんですか?」 「したから、連絡がきたんだ。後のことはよろしくってね。」 「それは……」 了承した後にわざわざ紫苑にそんな連絡をする、その真意を正しく汲み取ったひいづるは苦笑した。しかしそれが最善ではあるのだろうとも思った。両家に角が立たず、ひいづるの真実を隠し通すには。 ただ、少しだけ、申し訳なくもある。 「いいんですか?」 「何が?」 「だって、追い出されちゃうかもしれないですよ」 「……きみは、僕が朽木じゃないと嫌なの」 「いいえ!」 紫苑が胡乱気に訊いてくるのに、今更だったなとひいづるは笑った。彼は、彼だ。何が変わっても、揺るぎなく、己の惚れ込んだ雲雀恭弥だ。 だから、地位も、姿も、名前さえどうだっていいと思える。何もかもを切り捨てて、今、彼を選べる。 ひいづるは勢いよく、紫苑へと抱き着いた。 「あなたなら何だっていい。……オレはあなたがいい!」 知ってる。そう嘯いて、紫苑は閉じ込めるようにひいづるを抱き締めた。巡り逢って千年余り、初めて大空から雲を選んだ瞬間だった。 [*前] | [目次] | [次#] |