君がため 後


「死神版光る君と若紫、政略に引き裂かれた恋人たち、五大貴族同士の悲劇の恋――」

その夜。四楓院家に帰らなかったひいづるが邸の一室で眠りについた頃、紫苑の許を訪れたのは卯ノ花だった。

「煽りがつくとしたらこんなところでしょうかね。全く、いつからあなたは他所さまの姫君をさらってしまうような不良息子になってしまったのか……悲しいですこと。」
「あなたがボクの母だった覚えはないけど。」
「あらあら、似たようなものじゃありませんか。わたくしはあなたがこんな小さな若君だった頃から存じているんですから。」

人差し指と親指が引っ付くか引っ付くまいかの隙間を示しながら、ころころと卯ノ花が笑う。当然ながらその目尻に浮かぶのは涙ではなく微笑みである。

「それに、誰があなたに代わってこの邸を手入れしていたのか、言ってご覧なさいな。」
「……まあ、感謝はしてるよ。」

あの子に無理をさせずに済んだから。
音にせずとも続く言葉が伝わったのだろう、卯ノ花が更に笑みを深くしたのを見て、紫苑はそっぽを向いた。
四楓院家から手紙を受けた時、既にひいづるをさらってしまうことだけは決めていた。けれども、その先をどうしようかと思った。瀞霊廷を出てもいいがそこにろくな住居はない。だが、瀞霊廷に住まうなら隠れねばならない。己はどうだっていい。ひいづるさえ傍にいるなら何だっていいのだから。けれども、ひいづるは違う。あの子供は紫苑のみではきっと生きていけないし、駆け落ちたとて、堂々と暮らすまでの気概は持っていまい。例え本人が心底そう思っているつもりでも不可能だろう。だからこそ、彼は大空足り得たのだ。紫苑はこの子供の性質をよく知っていた。
考えに考えて、紫苑は後者を選んだ。協力者がいれば隠れ住む分には何ら問題なく、隠れる場所にも心当たりがあったからだ。
それがこの邸――幼い時分の紫苑が亡くなった母から受け継ぎ、今日まで母に縁のある卯ノ花に管理を任せていた邸である。母好みに調えられたそこは、藤の花咲き誇る、柔らかな春の底のような邸だ。

「わたくしも、漸くあなたをお迎えできてよかったですよ。母君が生きておいでなら、さぞお喜びになったでしょう。」
「?」
「母というのは何より息子が可愛いですから、手元に帰ってきてくれた方が嬉しいのですよ。あなたを紫苑と名付けたのは銀嶺殿ではなく母君でした。高貴な紫の字の似合う、藤の花のようにお美しく賢い若君になられますようにと。」

幼く小首を傾げた紫苑に微笑んだ卯ノ花が、近くから手折った藤の枝を手に、懐かしむようにしみじみと目を伏せる。

「本当に、見た目だけはその通りになられましたから、名前が呪だというのは本当なのかもしれませんねえ。」
「…………摘まみ出されたいならそう言いなよ。」
「冗談ですよ。」

紫苑が向き直ると、卯ノ花の柔らかな表情が一気に抜け落ちた。

「本題に入りましょう。朽木家はあなたを除名する決議を出すようです。四楓院が沈黙を貫いている分、朽木が責任を取らねばというところでしょうね。」
「つまり、予定通り?」
「ええ、つつがなく。」
「そう。」

他ならぬ己のことだというのに、紫苑はまるで興味がないかのように呟いた。実際どうでもいいのだろう。そもそも紫苑の朽木に対する怒りは、ひいづるを無断で奪おうとしたところにあるのだ。ひいづるを手元に置いた今、良くも悪くも彼の関心は朽木家にはない。

「……何を怒っているのさ。」
「あなたが怒らないからですよ。ここまで虚仮にされて、よくのうのうといられること。」
「だって、どうでもいいもの。寧ろ、ひいづるとこんなに早く一緒になれたから、今となれば好都合なぐらいだし。」
「はあ……。そうですわね、あなたはそういう人でしたわね。」

この男が複雑そうに見えてその実単純にできていることを忘れていた。まさに糠に釘、暖簾に腕押しという表現が相応しい紫苑の反応に肩を落として、卯ノ花は立ち上がった。

「それでは、そろそろお暇させていただきます。朽木家から、明朝に訪問するよう要請を受けておりますので。」
「何で。」
「さあ。あなた方が行方知れずだからじゃないですか。」

訪問ついでにこの怒りもぶつけてしまおうと決めた卯ノ花は、にっこりと微笑んで、邸を辞した。


◆◆◆◆◆◆◆


ところで、卯ノ花以外にも怒れる人はいた。本人の知らぬところで婚約させられ、その婚約相手を知らぬ間に義兄にさらわれていた、朽木蒼純その人である。
朝になっても一向に帰宅しない紫苑を不審に思い、使用人に訊ねてみれば、紫苑がひいづると駆け落ちたと言うではないか。しかも、その切欠は、銀嶺が蒼純とひいづるを婚姻させようとしたからだと言う。
それを聞いた蒼純は絶句した。つい先日、ひいづると顔を合わせ、その幸せそうな様子を目の当たりにしたばかりだ。だというのに、無理矢理に愛する人と引き離されそうになった(それも他ならぬ蒼純の為に!)二人の心情を思うと、善良な青年である蒼純は、申し訳ないやら腹立たしいやら。
無論、怒りの矛先は義兄ではなく、父である銀嶺だ。

「全く、何をお考えになっていらっしゃるのですか!兄上とひいづるさまの仲睦まじさは瀞霊廷の誰もが知るところです。それを突然理由もなく、引き離されようとされれば、あの兄上とてこのような暴挙にも出ましょう。」

難しい顔をする父の前で、蒼純はさめざめと泣いた。蒼純にとって、紫苑は近寄りがたい存在であるが、尊敬する兄にも違いない。蒼純が幼い頃などは、腹違いにも関わらずよくよく可愛がっても貰った。正室の子というだけで跡継ぎとなった小さな弟なんて、当代随一の霊力と謳われた紫苑にはとても面白いものではなかったろうに。
そんな兄から、その唯一の女性まで己が取り上げるなど、蒼純にはとてもとても許せなかったのである。
そんなこんなで。卯ノ花が朽木家を訪ねた頃には、今回の騒動の根源である銀嶺も、すっかりと力をなくした様子で上座におわしましていたのだった。

「あらあら」

可愛がっていた素直な末息子に反抗されて、悄気てしまったらしい。蒼純は、年をとってから産まれた子であるから、尚更可愛く、老人の心には堪えたのだろう。
卯ノ花は込み上げてくる笑いを噛み殺して、銀嶺に声をかけた。

「いいおっさんが落ち込んでいても可愛くありませんよ?」

もっとも自業自得であるし、傷口にたっぷりと塩を塗り込んでやろうという気概であるから、同情はしないが。卯ノ花を見上げた銀嶺の表情が、まるで迷子のようだったので、卯ノ花は少しだけ話を聞くことにした。

「八千流さま……。」
「その名はとうに捨てました。」
「私にとって、あなたはいつまでも八千流さまに変わりありません。」

銀嶺が首を振る。卯ノ花は諭すように言った。

「あなたも、その頑なさは昔から変わりませんわね。」
「いけませんか。」
「そうですね、今回ばかりは。……わたくしたちは変わらずとも、時代は変わったのですから。確固たる地位の姫君と結ばれずとも、蒼純は……あの子は幸せになれますわ。」

卯ノ花は、この暴挙に至るまでの銀嶺の気がかりを何となく見抜いていた。
かつて青年であった銀嶺もまた、身分を越えた恋をしていた。しかしそれは、他家の高貴な姫と政略婚を望まれていた銀嶺に成就できるものではなく、銀嶺は流されるままに恋を捨てた。それは結果的に銀嶺の人生を幸福なものにした。
子供にも己と同じように安定した幸福を与えたい――子供の親ならば誰しもが願うことだ。

「変わらないと言いましたが、成程、あなたも人の親になったんですねえ。」

銀嶺が恥じ入るように俯くのを、卯ノ花はしみじみと見やった。しかし、釘を刺すのも忘れない。

「ですが、あなたの息子は蒼純だけではないでしょう。」
「……紫苑には、悪いことをしてしまったと思います。あれは昔から欲望も薄く、聞き分けもよかったものですから、まさか駆け落ちなんてするとは思いもせず……すっかり甘えてしまっていた。」
「全くです。――聞き分けがよかったのは、あの子にとって人生がどうでもいいものだったからに過ぎません。千年もの月日を生きて、あの子には、執着するだけの価値のあるものがなかったのです。ひいづるさまが、この世に生まれ落ちるまでは。」

ひいづると紫苑の出逢いを、卯ノ花ははっきりと覚えている。
ひいづるが生まれてから三年ほどの、ある夜だった。四楓院家の幼い二の姫君のお披露目の宴に、紫苑は朽木家名代として、卯ノ花は護廷十三隊の一隊長として招かれていた。
ひいづるを一目見て、卯ノ花は、幼くとも五大貴族に相応しい霊力を持つ子供だと思ったが、白皙に胡桃色の頭髪を見て、哀れにも思った。褐色の肌に紫がかった黒髪こそが、四楓院宗家の特徴である。ひいづるの儚い容貌は、子供が異端であることを如実に物語っていた。
しかし、紫苑は、何ら特別でないその幼い子供を、運命と呼んだ。そしてひいづるも、それを信じた。

「銀嶺。あの子達を祝福してやるべきです。除名したとして、あの子達がそれぞれ宗家の血を継ぐ高貴な身の上に変わりはありません。更に言えば、紫苑は十一番隊隊長。世の人々の噂の種になるのは明白です。……いえ、もう既になっていますか、悲劇の恋人達と。それならばいっそ認めてやって、除名でなく、独立という形で罰した方が、両家の体裁も保てましょう。」
「紫苑を分家に、ということですか。」
「どうせいずれはそうなることが、早まるだけです。それに、これならば、紫苑を当主に望んでいた者達も、異論を唱えられはしますまい。」

卯ノ花の提案に、銀嶺は暫し考えて、頷いた。蒼純が次期当主として目されている今も、霊力に優れた朽木家の中でもかつてないほど強大な霊力を持っている紫苑を、当主に推す声は少なからず上がっている。銀嶺が現役である間は目立った争いは見られないが、いつか継承する日が近づけば、それらはすぐに表面化するだろう。しかし、紫苑が自らの不祥事で朽木宗家から追いやられたならば、事情は変わってくる。

「すぐに書状を用意しましょう。大変申し訳ないが……届けていただけますか。」
「勿論ですとも。」

卯ノ花が力強く請け負うと、銀嶺は力なく笑んだ。放逐することでしか我が子を幸せにしてやれない己が、酷く無力に思えていた。


◆◆◆◆◆◆◆


銀嶺の書状を携えた卯ノ花は、昨夜に引き続いて、紫苑とひいづるの元を訪ねた。親の心子知らずとはよく言ったもので、二人は朽木家の判断を何の感慨もなく受け止めた。

「ふうん。で、どうしろと?」
「まずは分家としての雅号――あなたの字(あざな)をどうするかですわね。」

分家するならば、朽木を名乗る訳にはいかない。別名かあ、と独りごちて、ひいづるは紫苑の袖を引いた。

「ねえ、名前、これにしましょうよ。」

紫苑はきょとん、とした。ひいづるがさらさらと紙に書いてみせたのは、随分久し振りに見た文字だった。何も知らない卯ノ花が、褒めそやす。

「それは、風情がありますね。冬の朽ちたる木から、春の訪れを告げる鳴き声へ。この春の花に溢れた邸に相応しい名前ですこと。」
「……何か、朽木に対する嫌味に聞こえるんだけど。」
「あら、気の所為ですよ。素晴らしいお名前だと言っているだけですわ。」

ひいづるが照れくさそうに頭を掻いた。そんなに深く考えていた訳ではなかった。ただもう一度、その名を呼べたならと、少しばかり淋しく思っていただけで。
ちらり、ひいづるが隣の紫苑を伺う。紫苑は仕方ないなとばかりに、「好きにしなよ」と息を吐いた。ひいづるは満面の笑みで応えた。

「はい、雲雀さん!」


さて、数日の後、朽木家は、出奔していた紫苑の帰還を待ち、正式に分家する。そうして、瀞霊廷をさざめかせた恋物語は、静かに終結したのであった。

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